西国20番 善峯寺〈文政8年〉

文政8年『神社仏閣順拝帳』
西国20番 西山 善峯寺
山城国乙訓郡小塩村(京都市西京区大原野小塩町)

西国20番善峯寺の納経

総持寺を参拝した太郎助は再び山城国に入り、西国20番善峯寺に参拝しています。摂津と山城の境、釈迦岳の山腹に多くの堂塔が立ち並び、境内の広さは約3万坪、高低差は約100mと言います。

善峯寺は長元2年(1029)恵心僧都源信の弟子・源算上人によって開創されました。

寺伝によれば、西山に入った源算上人に老翁の姿をした阿智坂明神が示現し、この地に伽藍を建立するように託宣しました。

源算上人はお告げに従ってお堂を建立しようとしますが、山の斜面と岩石のために地ならしが困難であることに思い悩みます。すると上人の夢に一人の僧が現れ、力を貸すと告げました。そして次の夜、猪の大群が現れて岩をうがち、地面をならして基壇を造成したといいます。ここにお堂を建立し、自刻の千手観音像を本尊として法華院と名付けました。

長元7年(1034)後一条天皇の勅願所とされ、「良峯寺」の寺号を賜りました。

長久3年(1042)後朱雀天皇の勅命により洛東鷲尾寺の千手観音を当寺に遷座して本尊としました。この観音像は、行円上人が賀茂社の槻木で革堂(西国19番)の本尊を彫った折、その余材で安居院の仏師・仁弘法師が彫ったものと伝えられます。

建久3年(1192)慈鎮和尚が住職をされているとき、後鳥羽天皇より御宸筆の「善峯寺」の額を賜り、寺号を善峯寺に改めました。その後も証空上人(浄土宗西山派の祖)が住職の時に後嵯峨天皇が勅願所とされるなど、皇室より多くの帰依と外護を賜りました。

承久の乱の際には後鳥羽天皇の皇子・道覚法親王が当寺に入って難を逃れ、その後も亀山天皇の皇子・慈道法親王、伏見天皇の皇子・尊円法親王など多くの法親王が住持を歴任したことから「西山宮」と呼ばれました。

室町時代には歴代足利将軍も当寺を保護したことから寺運は隆盛し、僧坊は52に及んだといいます。しかし応仁の乱の兵火のために伽藍は全焼してしまいました。天正15年(1587)豊臣秀吉により復興の兆しが見えるようになりますが、本格的な復興は江戸時代のこととなります。

現在の善峯寺の伽藍は、その多くが江戸時代、5代将軍徳川綱吉の母・桂昌院の寄進によるものです。桂昌院は、父・本庄氏が善峯寺の薬師如来に祈願して生まれたととうことから深く帰依し、復興のために尽力しました。現存する鐘楼・観音堂・護摩堂・鎮守社・薬師堂・経堂などは桂昌院が寄進復興したものです。

太郎助の参拝は桂昌院による復興から130年ほど後ですから、現在と同じような景観を見ただろうと思われます。

善峯寺の納経

西国20番善峯寺の納経

巡拝帳を見ると、揮毫は右から順に

「奉納経」
「洛西山」
「吉峯寺大悲殿」
「酉六月七日」「役者」

中央の宝印は判読しづらいのですが火焔宝珠に千手観音の種字「キリーク」だと思われます。右上は「西国第廿番」、左下の黒印は判読できません。

篠田ほつうの京都時空観光案内 善峯寺・正法寺 粟生光明寺・十輪寺: 観光ドライバーのための京都案内マニュアル篠田ほつうの京都時空観光案内 善峯寺・正法寺 粟生光明寺・十輪寺: 観光ドライバーのための京都案内マニュアル

善峯寺の概要

西山 善峯寺(よしみねでら)
現名称:西山 善峯寺
御本尊:千手千眼観世音菩薩
創建年代:長元2年(1029)
開基:源算
山城国乙訓郡小塩村(京都市西京区大原野小塩町)
宗派等:善峰観音宗(天台系単立)

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