西国22番 総持寺〈文政8年〉

文政8年『神社仏閣順拝帳』
西国22番 補陀洛山 総持寺
摂津国島下郡総持寺村(大阪府茨木市総持寺)

西国22番総持寺の納経

西国23番勝尾寺を参拝した太郎助は京都のほうへ向きを変え、22番総持寺を参拝しています。総持寺の御本尊は亀の背に乗った観音様として有名です。

総持寺は中納言藤原山蔭卿によって創建されたと伝えられます。藤原山蔭は吉田山に春日大社四座の神を勧請して吉田神社を創建したり、四条流包丁式を確立したことでも知られています。

寺伝によれば、山蔭の父・藤原高房が太宰府に赴任するため淀川を下っている途中、猟師が大亀を捕らえているのを見ました。高房は「今日は18日で観音様の縁日です。どうかその亀を譲ってください」と言って、自分の着物と亀を交換し、川へ放してやりました。

その夜、山蔭は継母の企みにより川に落とされてしまいました。高房は嘆き悲しんで、日頃信仰する観音様に亡骸でもいいからもう一度会わせてほしいと祈りました。すると、前日に助けた亀が元気な山蔭を乗せて現れました。高房は観音様の功徳に感謝し、観音像の造立を発願しました。

高房の没後、山蔭がその遺志を継いで観音像を造立、寺を創建しました。さらに寛平2年(890)山蔭の三回忌に、山蔭の子どもたちが協力して総持寺の伽藍を完成させました。

一条天皇・後一条天皇・白河天皇・鳥羽天皇が勅願所とするなど皇室の帰依が厚く、寺運は隆盛しました。

御本尊は子育て観音、厄除け観音と呼ばれて信仰を集めています。また、元亀2年(1571)織田信長の兵火により伽藍が焼失した際、御本尊は下半身が焼けただけで焼失を免れたことから「火防せの観音」とも呼ばれます。

現在の本堂は慶長8年(1603)豊臣秀頼の命により片桐且元を奉行として再建されたものです。江戸時代には寺領25石が安堵されました。

総持寺の納経

西国22番総持寺の納経

順拝帳を見ると、右から順に

「奉納経」
「西国二十二番」
「本尊大悲殿」
「摂州 惣持寺」「知事」

中央の宝印は梵字のようですが、判読できません。左下は「総持寺」。

この後、太郎助は再び京へ入ります。

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総持寺の概要

補陀洛山 総持寺(そうじじ)
現名称:補陀洛山 総持寺
異称:惣持寺
御本尊:千手千眼観世音菩薩
創建年代:寛平2年(890)
開基:中納言藤原山蔭卿
摂津国島下郡総持寺村(大阪府茨木市総持寺)
宗派等:高野山真言宗 準別格本山

文政8年『神社仏閣順拝帳』
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