西国18番 頂法寺(六角堂)〈文政8年〉

文政8年『神社仏閣順拝帳』
西国18番 紫雲山 頂法寺(六角堂)
山城国 下京 堂之前町 (京都市中京区堂之前町)

西国18番頂法寺の納経

善峯寺に参拝した太郎助は京の町に入り、まず西国18番頂法寺に参拝しています。頂法寺は六角堂の名で親しまれ、また華道の池坊の発祥の地としても有名です。

寺伝によれば、敏達天皇の御代、淡路島に黄金の如意輪観音像が漂着しました。これは聖徳太子が前世、唐土で修行していたときに信仰していた像で、太子はこれを自らの念持仏としました。

太子が16歳の時、物部守屋討伐に臨み、この念持仏に戦勝を祈願し、それが成就した際には四天王寺を建立するという誓願を立てました。

用明天皇2年(587)聖徳太子は四天王寺建立のための良材を求めてこの地を訪れました。池で沐浴するために念持仏を木に掛けるとそのまま動かなくなってしまい、「この地に留まって衆生を救いたい」と告げました。

そこで、六角形の御堂を建ててお祀りしたのが頂法寺の始まりだと伝えられます。本尊を祀る御堂が六角形なので六角堂と呼ばれるようになりました。

『小右記』(藤原実資の日記)や『長秋記』(源師時の日記)などに六角堂の名が見えるほか、『梁塵秘抄』にも観音の霊験がある寺として挙げられており、平安時代には観音の霊場として知られていたことがわかります。貴族のみならず、一般庶民の信仰も集めていたようです。

また、浄土真宗の宗祖・親鸞聖人が百日間参籠し、聖徳太子の夢告を受けて法然上人の専修念仏に帰依したことは有名です。

応仁の乱の後、京都は上京と下京に分かれましたが、六角堂は下京の町堂として町衆による自治の中核的な役割を果たすようになりました。危急の際には上京の革堂と下京の六角堂の鐘が急を告げ、また、下京の町組代表の集会所ともなりました。江戸時代の末まで、祇園祭の山鉾巡行のくじ取り式は六角堂で行われていたそうです。

ところで、聖徳太子が身を清めたという池の畔に池坊という僧侶の住坊がありました。池坊の僧は六角堂の執行として仏前に花を供えていましたが、それにさまざまな工夫を加え、「いけばな」が成立しました。現在も頂法寺の住職が池坊の家元を兼ねています。

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頂法寺の納経

西国18番頂法寺の納経

順拝帳を見ると、揮毫は右から順に

「勅願所」
「本尊救世観世音」
「紫雲山頂法寺」「役者」
「酉六月八日」

中央の宝印は六角形(六角堂を表すと思われる)の中に勅願所であることを示す十六八重菊の御紋。右上の朱印は十六八重菊の御紋、左下の黒印は「役者」と思われる。

花僧―池坊専応の生涯 (中公文庫)花僧―池坊専応の生涯 (中公文庫)

頂法寺の概要

紫雲山 頂法寺(ちょうほうじ)
現名称:紫雲山 頂法寺
通称:六角堂
御本尊:如意輪観世音菩薩
創建年代:用明天皇2年(587)
開基:聖徳太子
山城国洛中下京 堂之前町(京都市中京区堂之前町)
宗派等:天台系単立

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