納経請取状から御朱印へ〔四天王寺〕

これまで何度も書いてきたように、御朱印の起源は六十六部廻国聖の納経請取状です。これは江戸時代の納経帳や六十六部の研究から明らかなのですが、残念なことにこれまで納経請取状の実物を見る機会がありませんでした。

ところが先日、国立東京博物館で行われている「春日大社 千年の至宝」を見に行ったついでに平成館一階を覗いたところ、納経請取状(展示では納経請取書)の実物を見ることができました。日本の考古の特別展「経塚に埋納された経典-紙本経と関連遺物-」で展示されているものです。

撮影可能ということで、写真を撮ってきました。

納経請取状

四天王寺の納経請取状
(国立東京博物館)

承応2年(※12月のため西暦では1654年)に大阪の四天王寺から出された納経請取状です。17世紀末から18世紀初頭頃に納経帳が登場しますので、納経帳タイプではない納経請取状としては末期のものといえるでしょう。

しかし、これを見て本当に御朱印のルーツと思えるでしょうか。参考までに、現代の四天王寺の御朱印を見てみましょう。

四天王寺の御朱印

ずいぶん違います。

そもそも納経請取状には朱印が押されていません。一般的には、中央に押される朱印こそ御朱印の御朱印たる所以と思っている人も多いでしょうから、とても御朱印のルーツとは思えないという人も少なくないのではないでしょうか。

そこで今回は、四天王寺の納経請取状がどのように変化を遂げて現在のような御朱印になったかを見てみたいと思います。

納経請取状から納経帳へ

まず四天王寺の納経請取状の内容を確認しておきたいと思います。

摂津国四天王寺
奉納大乗妙典     一国壹部
夫当寺者佛法最初霊地一切衆生帰
依渇仰□□修善速證无上大菩提処
也 右志趣者現世安穏後生善処意
願所仍真文如件
        一舎利法師
            観順(花押)
承応貳癸巳歳極月十八日
          施主 妙光

本文は、四天王寺が日本最初の仏法の霊地であり、帰依渇仰すればたちまち最高の悟りに至ることができること、納経は現世での安穏と来世で善い所(浄土世界)に行けることを願ってのものである、というようなことが記されています。

これを見ると、単なる事務的な受領証ではなく、むしろどういうお寺で、どういう功徳があるか、という内容であることがわかります。

次に、この納経請取状から約70年後、享保11年(1726年)六十六部の納経帳の四天王寺の納経。

享保11年の納経

奉納醍醐妙典  壹部
上宮皇太子尊前
 摂州四天王寺聖霊院 役者
享保十一丙午年正月十五日
      伊兵衛尉

御本尊・救世観音ではなく聖徳太子を祀る聖霊院での納経となっています。上宮皇太子は聖徳太子のことです。上の納経受取状と同じく朱印は押されていません。この時代は納経帳が登場してまだ間がなく、納経請取状から現代の御朱印に近づいていく過渡的な段階で、四天王寺の納経はその典型例といえるでしょう。

同じ納経帳の他の寺社を見るとよくわかります。

下鴨神社・頂法寺の納経

京都の下鴨神社(右)と頂法寺の納経。下鴨神社は「洛陽東北下鴨御祖皇大神宮王城守護御読経所普賢延命菩薩御広前者也」、頂法寺は「洛陽六角堂聖徳太子開基本尊如意輪観世音御宝前西国第十八番」とあり、納経請取状の様式を色濃く残しています。

伊和神社・美作国分寺の納経

一方、こちらは同じ納経帳にある播磨国の伊和大明神(兵庫県宍粟市の伊和神社、右)と美作国の国分寺(岡山県津山市の国分寺)の納経。神号や本尊の名を大きめに書いており、より現在の御朱印に近づいています。

この頃は墨書のみで朱印を押さないのが主流で、上記の納経はいずれも中央に朱印が押されていません。それでもごく少数ながら朱印を押す寺社も現れています。

伯耆国分寺・倭文神社の納経

同じ納経帳、伯耆国の国分寺(鳥取県倉吉市)と倭文神社(鳥取県湯梨浜町)の納経。こうなるとかなり御朱印らしい感じがします。

江戸時代後期から明治時代の納経帳

19世紀に入ると、さらに現在の御朱印に近くなります。

四天王寺の納経

文政8年(1825)、当ブログで紹介している太郎助の納経帳の納経。やはり救世観音ではなく聖徳太子の納経となっています。

日本佛法最初
聖徳太子御宝殿
摂州 四天王寺
酉五月二十六日

中央に「諸法実相」という宝印が押され、判読できませんが右上と左下にも朱印が押されています。これなら御朱印といっても納得してもらえるでしょう。

ただし寺院としては珍しく、「奉納経」「奉納大乗妙典」といった納経に関わる文言がありません。この時期、神社は納経に関わる文言を省くところが主流になっていきますが、寺院では滅多にありません。

嘉永2年の納経

こちらは嘉永2年(1849)年の納経帳。

文政8年の納経帳とほぼ同じ内容です。決められた形があったことがわかります。

明治27年の納経

こちらは明治27年(1894)の納経。

大日本佛法最初
聖徳皇太子御宝殿
大阪 四天王寺
明治二十七 三月十日

時代を反映した小さな変化はありますが、江戸時代以来の形を守っています。

昭和戦前から平成の御朱印

大正半ばに現在のような折り本式の集印帖が登場することにより、納経・御朱印に顕著な変化が現れます。

第一は、墨書をせず押印のみという形が多くなることです。特に神社では顕著で、大半が押印のみで墨書があるのは非常に珍しくなります。寺院は神社ほどではなく、墨書がある例も多いのですが、次第に押印のみの例も増えていきます。因みに寺社の授与する印を「御朱印」と呼ぶようになるのがこの時期です。

第二は、摂末社や境内仏堂など複数の御朱印を授与する例が出てくることです。四天王寺もその一つです。

昭和4年(1929)の御朱印。4種類あります。

昭和4年摂津33

摂津国三十三ヶ所第33番の御朱印。朱印のみで、中央の宝印は「仏法僧」の三宝印。「四天王寺金堂納経所印」とあるように、御本尊・救世観音(当時は如意輪観音とされていた)の御朱印です。

念仏堂の御朱印

揮毫が「本尊阿弥陀如来」「聖徳太子念仏堂」となっているので念仏堂の御朱印のようですが、左下の朱印は「四天王寺印」です。四天王寺としての汎用的な印で、揮毫で希望に対応していたのかもしれません。

大師堂の御朱印

左下の印は「四天王寺大師堂」となっていますが、元三大師堂のものか、弘法大師を祀る大師堂なのかは判断できません。

見真堂の御朱印

見真堂の御朱印。親鸞聖人を祀るお堂です。

こちらは昭和11年の御朱印。

昭和11年の御朱印

揮毫は「大日本佛法最初」「聖徳皇太子御宝殿」で、江戸時代以来の伝統を引き継いでいます。中央の宝印は「佛法僧三宝」、右上に「本朝佛法最初」、左下に「荒陵山印」。

これら以外にも金堂の御朱印をはじめ、いくつか種類があったようです。四天王寺は御朱印の種類が多いことで知られていますが、これは戦前からの伝統ということのようです。

ただし、戦前は現在のような「大悲殿」の揮毫は見かけられません。比較的新しい形だと思われます。一方、四天王寺の伝統であった「聖徳太子」に関わる御朱印は聖徳太子御遺蹟めぐりとなにわ七幸めぐりの御朱印としてのみ残っています。

太子霊場の御朱印

このようにして、納経請取状から現在の御朱印へと変化してきたわけです。

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コメント

  1. 薛靜茹 より:

    はじめまして。突然のご連絡失礼いたします。
    私は台湾東海大学から日本語言文化学科四年生の薛静茹です。
    現在、大学の卒業論文のテーマとして御朱印について研究していますので、
    納経証から御朱印への紹介があります。
    そして、あなたが記録した内容と写真はとても詳しいと思いますので、
    卒業論文を作るために、「納経請取状から御朱印へ」の写真を引用させていただけませんか?
    著作物の出所を引用部分には明示します。
    尚、卒業論文のみで利用することとし、
    それ以外に活用することはありませんのでご安心下さい。
    ご多忙のところ恐縮ですが、ご返答いただければ幸いです。
    もし失礼なことがありましたら、どうかお許してください。
    よろしくお願い申し上げます。

  2. […] 引用:古今御朱印覚え書より […]

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