四国54番 円明寺〈文政8年〉

四国54番円明寺の納経

文政8年『神社仏閣順拝帳』
四国54番 近見山 宝鐘院 円明寺
伊豫国野間郡阿方村(愛媛県今治市阿方甲)

四国54番円明寺の納経

かつて四国53番札所と54番札所はどちらも円明寺と号していました。明治になって郵便制度ができたとき、たびたび両寺を間違えるトラブルが起こったため、54番札所が通称の延命寺を正式名称にしたという経緯があります。

寺伝によれば、養老4年(720)行基菩薩が聖武天皇の勅願により、自ら彫った不動明王像を本尊として、近見山の山上に開創しました。

弘仁年間(724~49)弘法大師が嵯峨天皇の勅願によって再興し、「不動院円明寺」と名付けたとされます。

文永5年(1268)東大寺の学僧・示観国師凝念がこの寺の西谷に籠り、『八宗綱要』を執筆しました。この書はインドから中国・日本と伝来した仏教の概説と倶舎・成実・律・法相・三論・華厳・天台・真言の八宗と禅・浄土の各宗の歴史と教理の要点をまとめたもので、現代でも仏教の入門書として尊重されています。

往古は谷々に僧坊が立ち並び、学問と信仰の道場として栄えましたが、たびたびの火災で焼失し、享保12年(1727)現在地に移転・再興されました。

当寺の梵鐘は「宝鐘院」の名の通り名鐘として知られます。

現在は鐘楼が二つあり、現役のものが「近見三郎」、今治市の文化財に指定されているほうが「近見二郎」と呼ばれます。近見二郎は宝永元年(1704)の鋳造で、太郎助の参拝時にはあったようです。その昔、この金を盗んだ盗賊が、あまりの音色の美しさに返してきたという逸話があるそうです。現在は除夜の鐘としてのみ撞かれます。

それ以前にあった「近見太郎」は、長曽我部の兵士によって略奪され、船に積まれて海上に出ましたが、「いぬる、いぬる(帰る、帰る)」泣き始め、自ら海中に沈んで略奪されることを拒んだと伝えられています。

目次

円明寺の納経

四国54番円明寺の納経

『順配帳』を見ると、墨書部分は右から順に

「奉納」
「本尊不動明王」
「四月四日」「近見山」
「円明寺」

中央の朱印は判読しづらいのですが、火炎宝珠に不動明王の種字「カーン」もしくは「カン」だろうと思われます。右上は白抜きで「五十四番」。左下の「寶鐘院」は現在のものとほぼ同じようです。

八宗綱要 (講談社学術文庫)八宗綱要 (講談社学術文庫)

円明寺の概要

近見山 寶鐘院 圓明寺(えんみょうじ)
現名称:近見山 宝鐘院 延命寺
御本尊:不動明王
創建年代:養老4年(720)
開山:行基菩薩
所在地:伊豫国野間郡阿方村(愛媛県今治市阿方甲)
宗派等:真言宗豊山派

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