西国2番 紀三井寺〈文政8年〉

西国2番紀三井寺の納経

文政8年『神社仏閣順拝帳』
西国2番 紀三井山 金剛宝寺(紀三井寺)
紀伊国名草郡紀三井寺村(和歌山県和歌山市紀三井寺)

西国2番紀三井寺の納経

西国第二番札所・紀三井山金剛宝寺護国院は、紀三井寺の名で広く知られています。宗教法人としての名称は護国院。紀三井山という号は、山内に湧き出す清浄水・楊柳水・吉祥水の三井水に由来するとされます。

寺伝によれば、宝亀元年(770)唐より渡来した為光上人が、仏法弘通の霊地を求めて名草山に至り、袋谷(千手谷)の灯明松の下で千手観音の像を感得しました。そこでここに一寺を開創し、千手観音を秘仏として納めるとともに、自刻の十一面観音像を安置して本尊としました。

文献に初めて現れるのは、『寺門高僧記』に見える行尊と覚忠の巡礼記で、寛治4年(1090)頃とされる行尊の巡礼記では5番(1番は長谷寺)、応保元年(1161)の覚忠の巡礼記では2番(1番は那智山)とされています。

後白河法皇の勅願寺とされ、室町時代には熊野詣でや西国巡礼が盛んになったことにより多くの参詣者が集まるようになりました。しかし、天正13年(1585)豊臣秀吉の紀州攻めで寺領を没収され、この時に文書等も散逸したため、それ以前の歴史についてはよくわかっていません。

慶長6年(1601)浅野幸長が寺領13石を寄進。その後、徳川頼宣が8石を加えて21石としました。紀州徳川家の歴代藩主はたびたび当時に参詣し、紀州祈祷大道場として尊崇したといいます。

本坊の護国院は天正14年(1156)本願坊として創建され、明暦年間(1655~58)護国院と改称されました。

元は真言宗山階派に属していましたが昭和26年(1951)に独立し、救世観音宗の総本山となっています。

目次

紀三井寺の納経

西国2番紀三井寺の納経

順拝帳を見ると、墨書部分は右から順に

「奉納経」
「紀三井山救世殿」
「酉五月廿二日」

紀三井寺の本堂には「救世殿」の扁額が掲げられています。

中央の朱印は蓮台上の円に十一面観音の種字「キャ」。右上の印は「西国第二番」、左下は判読しづらいのですが、同時期の納経帳なども検討して「護」であろうと思います。

西国三十三所 道中の今と昔(上)西国三十三所 道中の今と昔(上)

紀三井寺の概要

紀三井山 金剛宝寺(こんごうほうじ)
現名称:紀三井山 金剛宝寺 護国院
御本尊:十一面観世音菩薩
創建年代:宝亀元年(770)
開基:為光上人
所在地:紀伊国名草郡紀三井寺村(和歌山県和歌山市紀三井寺)
宗派等:救世観音宗総本山(かつては山階派)

文政8年『神社仏閣順拝帳』
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