古今御朱印覚え書

御朱印に関する考察、寺社参拝、拝受した御朱印、昔の御朱印・納経帳などについてのメモ

御朱印の歴史(1)

      2015/12/15

高野山奥之院の御朱印

平成元年(1989)高野山奥之院

ブログ開設1周年の記念企画として、御朱印の歴史をまとめてみることにしました。

御朱印の起源

御朱印の起源は江戸時代の「納経帳」にあり、さらに遡ると六十六部廻国聖の「納経請取状」に行きつきます。

六十六部

六十六部『日本風俗図絵 第七輯』
国立国会図書館蔵

六十六部廻国聖は、詳しくは日本廻国大乗妙典六十六部経聖、略して六十六部または六部と称します。大乗妙典とは法華経のことで、法華経を書写して経筒に納め、日本全国66ヶ国を巡って、それぞれの国の代表的な神社もしくは寺院1ヶ所に1部ずつ納経するという修行者です。実際には経典ではなく納経札を納めることもありました(当時は神仏習合で、日本の神々をインドの仏・菩薩の化身とする本地垂迹説が主流であったため、神社への納経も普通に行われていました)。

鎌倉時代末から室町時代にかけて起こったと考えられており、16世紀に盛んになった後、江戸時代になって再び盛行しました。この六十六部が納経の証しとして寺社から発給してもらったのが納経請取状です。

江戸時代になると、請取状を発給してもらう形から、帳面を持参して記帳押印してもらう形に変わります。これが納経帳のはじまりです。

東大寺の納経

享保12年(1727)東大寺
六十六部の納経帳

この頃から六十六部が西国霊場や四国霊場を巡拝に組み込むようになり、西国や四国の札所も納経に対応するようになりました。現存する四国八十八ヶ所関係で最古の納経帳は宝永8年(1711)から正徳元年(1712)にかけてのものとされていますが、これも六十六部廻国の一部としてのものです。それが西国や四国の巡礼者にも広がり、18世紀後半には四国八十八ヶ所や西国三十三所の納経帳も登場しました。

19世紀の文化文政から天保の頃には納経帳を持って巡拝する習慣が一般庶民にもかなり普及したようで、女性を含む一般の人々が四国・西国などを巡った納経帳がかなり残されています。

文政4年四国八十八ヶ所納経帳

文政4年(1821)四国八十八ヶ所
女性の納経帳

「納経」の意味

さらに、六十六部が1ヶ国1ヶ所に限定せずに多数の寺社を巡拝するようになり、納経に対応する寺社も増えていきました。また、江戸時代の後半には写経の奉納ではなく、納め札の奉納が主流となっていました。

納札

六十六部の納札

なお、当時は「御朱印」という呼び方はなく、納経帳への記帳押印していただくこと、もしくは記帳押印そのもの(以下、仮に「御判」と呼びます)を「納経」と呼んでいたようです。

四国八十八ヶ所では、現在でも記帳押印そのもの、もしくは記帳押印していただくことを「納経」と呼ぶ習慣が残っており、「御朱印をお願いします」ではなく「納経をお願いします」ということが多いようです。

つまり、写経を奉納するという本来の意味での納経の証として納経帳に御判をいただくのではなく、納め札を奉納し、納経帳に御判をいただくことによって、納経(写経を納める)と同等の功徳を得られるという意味に変化していたものと推測することができます。

納経帳を棺の中に納めると極楽往生の手形になるという風習も、そのあたりが根拠となっているのではないでしょうか(実際に納経をしているわけではないので、証明書としての納経帳が意味を持つ)。

また、現在の御朱印は中央に押される朱印(宝印)が構成要素のメインとなっていますが、初期の納経帳では中央に印のない寺社が少なからずあります。(少なくとも形式的には)納経の証明ですから、経典を受け取ったという文言と署名捺印のほうが重要だったためでしょう(そのため、左下の署名の所には押印…まれに花押…がある)。

私の手許にある享保10~12年(1725~27)の納経帳では、中央に朱印を押しているのは194ヶ所中30~40ヶ所程度(印の位置や内容により中央に押された朱印とするかどうか判断に迷うものがあるため)しかありません。当時は中央に朱印を押すほうが少数派だったわけです。

清水寺の納経

享保12年(1727)清水寺

初期は墨書が中心で、中央に押される朱印は装飾的な意味が強かったものと考えられます。

早くも文化年間の秩父三十四ヶ所の納経帳には朱印のみの納経も見られますし、幕末には朱印(宝印)を押すのがほぼ主流となっているので、次第に中央の朱印(宝印)を重視するようになったことは間違いありません。しかし、明治の頃までは押さない伝統を堅持している寺院も残っていました。

童子堂の納経

文化7年(1810)童子堂
朱印のみの納経

善通寺の納経

明治38年(1905)善通寺
中央の朱印(宝印)はない

完全に朱印(宝印)が中核的要素となるのは大正の半ば、折り本式の集印帖が登場して以降のことです。

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