御朱印西国三十三所由来説について(下)

西国三十三所の納経帳は六十六部の納経帳から派生した

御朱印西国三十三所由来説について(上)

西国三十三所の納経帳は、徳道上人が閻魔大王からいただいた御宝印に由来し、六十六部の納経帳とは別系統の独自のものとして現れたのか。この問題を解く糸口となったのが、文化10年(1813)の西国三十三所の納経帳でした。

文化10年(1813)西国三十三所の納経帳

というより、この納経帳によって、西国三十三所の納経帳と御宝印の問題を考えるようになったというほうが正確でしょう。それまでは、漠然と西国三十三所の宝印も御朱印の起源と考えていいのかもしれないという程度に考えているだけだったからです。

江戸時代の西国三十三所の納経帳は四国八十八ヶ所のものに比べてあまり出回っておらず、現物を手にする機会がなかなかありません。しかも、文化・文政年間(1804~31)の納経帳は享和以前(~1804)ほど希少ではないまでも、天保以降(1831~)の納経帳に比べると比較的数が少なく、より古い形を残していることも少なくありません。

この納経帳は西国三十三所すべてと信州善光寺の納経があります。ところが驚いたことに、西国霊場の33か所のうち、御本尊の種字(梵字)の印は20か所のみなのです。6ヶ所が「仏法僧宝」の三宝印や寺号などの漢字の印、2ヶ所が菊の御紋、5ヶ所は中央の朱印=宝印がありません。

1番那智山の納経

文化10年(1813)1番那智山
中央の朱印は「西国第一番札所」

12番正法寺の納経

文化10年(1813)12番正法寺
中央の朱印は十六菊の御紋

26番一乗寺の納経

文化10年(1813)26番一乗寺
中央の朱印はなし

このことに気がついて、現在、当ブログで紹介している文政8年(1825)の『神社仏閣順拝帳』を確認したところ、33ヶ所中30ヶ所で納経しており、うち4ヶ所の納経に中央の印がありませんでした。

27番円教寺の納経

文政8年(1825)27番円教寺
中央の朱印はなし

明治5年(1872)の西国三十三所の納経帳でも、4ヶ所ないし5ヶ所は中央の印がありません(33番華厳寺は、中央に印があるものの左下の印と同じ「華厳教寺」の印なので、これを位置から中央の印とすれば4ヶ所、しなければ5ヶ所)。

31番長命寺の納経

明治5年(1972)31番長命寺
中央の朱印はなし

33番華厳寺の納経

明治5年(1972)33番華厳寺
朱印は二つとも「華厳教寺」

もし西国三十三所の納経帳が徳道上人が閻魔大王からいただいたとされる御宝印に由来し、笈摺(おいずる)に宝印を押していただくという形から発展したものだとすると、当然、全札所の宝印(朱印)が揃っているはずです。

さらに、これを補強する資料があります。最近入手した享保10~12年(1725~27)の六十六部のものと思われる納経帳です。表紙が失われているため、資料的な価値は落ちるのだろうと思いますが、現存する納経帳としてはかなり古いものと思います。

この納経帳には西国三十三所のうち26か所が含まれているのですが、その中で中央の朱印があるのは第1番の那智山のみです。全体では194ヶ所で納経しており、そのうち30~40ヶ所は中央に朱印がありますので(印の位置や内容により、中央の印とするかどうか判断に悩むものがあるため)、西国以外の寺社よりもかなり少ないということがわかります。

ナチ山の納経

享保10年(1725)1番那智山
中央の朱印は宝珠に梵字か?

清水寺の納経

享保12年(1727)16番清水寺
中央の朱印はなし

つまり、西国三十三所の納経帳の中央に宝印(朱印)を押すようになったのは、西国霊場独自の納経帳に由来するのではなく、六十六部の納経帳で中央に朱印を押す形式が流行するようになった影響によるものと考えるのが自然でしょう。

各霊場の宝印(朱印)のみを押した古い時代の納経帳が存在しない事実も含め、西国三十三所の納経帳は四国八十八ヶ所と同じく、六十六部の納経帳から派生したものであって、独自に出現したものではないと考えるのが妥当でしょう。

徳道上人が閻魔大王からいただいた御宝印とは?

最後に残る問題は、徳道上人が閻魔大王から授かったという御宝印についてはどう考えればよいのか、ということです。

もちろん、徳道上人が閻魔大王から御宝印を授かったとか、それを花山法皇が中山寺の石櫃から見つけたというのが歴史的事実ではないにしても、御宝印の授与自体はあったはずだからです。実際、前回紹介した三重県立博物館の天保11年(1840)の笈摺にも各霊場の宝印(朱印)が押されていました。

当初、私は徳道上人と御宝印の話がもっと後の時代に創作されたのではないかと考えていました。例えば、明治初めの廃仏毀釈や文明開化の頃、下火になった西国巡礼に人々を誘引するため、御宝印に新しい意味付けを持たせたのではないか、というような感じです。

ところが、徳道上人が閻魔大王から御宝印を授かったという話は古いもののようですし、江戸時代の御宝印をいただいた笈摺の実例もあります。後代の創作という線は難しいようです。

この問題は、古い西国三十三所の資料で解決しました。

国立国会図書館の近代デジタルライブラリーに明治13年に発行された『西国三十三所観音順拝道中図絵』という、いわば西国三十三所のガイドブックがあります。

国立国会図書館デジタルコレクション

その挿絵に「焔(閻)魔大王之御宝印」が掲載されていました。

閻魔大王之御宝印

焔魔大王之御宝印
『西国三十三所観音順拝道中図絵』国立国会図書館蔵

見ての通り、納経帳にいただく朱印とはまったく別のもので、むしろ熊野の牛王宝印などを思わせる呪術的な雰囲気を持っています。

さらに、本文を見ると、徳道上人が御宝印を授かったとはありますが、33個とは書かれていません。蘇生したとき、本当に右手に宝印を握っていたとありますので、閻魔大王から授かった御宝印というのは1個だったのでしょう。中山寺を参拝した際に、この御宝印を笈摺などに押してもらうというのが元々の形だったのではないでしょうか。

古い開創伝承では、徳道上人は聖徳太子ゆかりの中山寺を一番札所にしたとされます(花山法皇が那智で託宣を受けて巡礼に出発したことから、那智山が1番札所になったとします)。中山寺の御宝印をいただき、それを背負って三十三ヶ所を回るのが本来の形だという観念があったようです(ただし、歴史的には8番長谷寺から始めるのが古い形-決まっていたわけではないが-で、熊野詣の流行とともに那智から回るようになったと考えられています)。

笈摺に各霊場の朱印を押す習慣については、むしろ納経帳の定着にともない、納経帳に押す朱印を笈摺にも押してもらうことが流行するようになったのではないかと思います。そうするうちに中山寺で押してもらっていた本来の御宝印と各霊場の朱印が混同され、いつしか徳道上人が33個の御宝印を授かったというように変化したのではないかと考えられます。御宝印をいただいて巡礼していたのが、御宝印をいただきながら巡礼するということになったわけです。

つまり、西国三十三ヶ所開創の伝承にある徳道上人が閻魔大王から授かった御宝印は、現在の御朱印とはまったく別のもので、むしろ現在の西国三十三所の御宝印とされているものは六十六部廻国聖の納経帳に由来するといってよいだろうと思います。

御朱印は西国三十三所の御宝印に由来するという説は、比較的新しい習慣に基づく俗説といってよいでしょう。

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