御朱印西国三十三所由来説について(上)

御朱印は西国三十三所の御宝印に由来するという説について

明治12年西国三十三所納経帳

御朱印の起源が六十六部廻国聖の納経請取状を淵源とする納経帳にあることは、すでに当ブログで何度か書いてきました。しかし、現代では六十六部の存在が忘れ去られてしまったためか、納経帳まではさかのぼることができても、その先についてはいくつかの俗説のほうが一般に浸透しています。

参考:御朱印の起源

今回はそういう俗説の一つ、御朱印の起源は西国三十三所巡礼に由来するという説について考えてみたいと思います。

四国八十八ヶ所については、現在知られている最古の納経帳が廻国巡礼のものであり、四国八十八ヶ所のみの納経帳はずっと時代を下るということが知られています。そのため、四国八十八ヶ所に納経帳=御朱印の起源を求めるということはあまりないようです。

西国三十三所も同じような状況だと思うのですが、それでも御朱印は西国三十三所に由来するという説が説得力を持っているのは、その開創伝承によるところが大きいのではないかと思います。

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西国三十三所の開創伝承と閻魔大王の御宝印

一般によく知られている西国三十三所の開創伝承は次のようなものです。

養老2年(718)大和国・長谷寺の徳道上人は病のために62歳で亡くなりました。ところが冥土に赴くと、閻魔大王より「生前に罪を犯して地獄に堕ちる者があまりにも多いため、滅罪のための三十三ヶ所の観音霊場を開き、人々に巡礼を勧めるように」と告げられ、起請文と33個の宝印を授けられて現世に戻されました。

閻魔大王と徳道上人

閻魔大王と徳道上人
『西国三十三所霊場』国立国会図書館蔵

徳道上人は閻魔王の教えに従い、33の霊場を定めて巡礼を勧めましたが、人々の受け入れるところとなりませんでした。上人は80歳で遷化し、33の宝印は摂津国・中山寺の石櫃に納め、巡礼の機が熟すのを待つことになりました。

それから約270年後、在位わずか2年の後、19歳で退位・出家された花山法皇が那智山で参籠されているとき、熊野権現が現れて徳道上人が定めた三十三の観音霊場を再興するように託宣を下しました。

西国霊場を巡礼される花山法皇

西国霊場を巡礼される花山法皇
『西国三十三所観音霊場記図絵』国立国会図書館蔵

花山法皇は河内国石川寺の仏眼上人の案内により、中山寺で徳道上人が石櫃に納めた33の宝印を探し出しました。そして、書写山円教寺の性空上人を先達とし、中山寺の弁光僧正らを伴って観音霊場を巡礼、再興されたと伝えられています。

そして、この33の宝印を各札所に配し、参拝した人が笈摺(おいずる)や納経帳にいただくようになったのが御朱印の起源になったとされます。

つまり、西国三十三所は徳道上人が閻魔さまから賜った三十三の宝印が機縁となっている、西国霊場の御朱印授与は、開創当初までさかのぼるという話です。

笈摺に押した御宝印が御朱印の起源になった?

笈摺というのは、巡礼者が着る袖なしの白衣です。元々は廻国行者や修験者などが、笈(おい。仏具や経巻、衣類、食器などを収めてランドセルのように背負う箱)で摺れて着物の背中の部分が傷むのを防ぐため、着物の上に着たのがはじめといわれています。

江戸時代には3枚の布を縫い合わせて作っており、両親が健在であれば左右が赤で中央が白、片親の場合は中央が赤で左右が白、両親ともなくなっている場合は3枚とも白にするという習慣もあったようです。

笈摺

笈摺『西国三十三所霊場』
国立国会図書館蔵

西国三十三所では、古くからこの笈摺に閻魔大王の御宝印をいただいく習慣があったようです。花山法皇が33番華厳寺に笈摺と杖と3首の御詠歌を奉納したという故事に倣い、満願の後は華厳寺の笈摺堂に奉納しますが、大切に持ち帰ることもあったそうです。

三重県立博物館のサイトには、天保11年(1840)に西国三十三所を順礼した際の笈摺が掲載されています(タイトルは「かたびら」になっています)。両親が健在だったようで左右が赤、中央の白い部分に各霊場の宝印が押されています。

http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/haku/osusume/katabira.htm

納経帳が六十六部廻国巡礼に由来するのは確実です。しかし、笈摺に各札所の宝印をいただくという習慣が西国巡礼にあり、それが(六十六部の納経帳の影響はあったかもしれませんが)独自に帳面にいただくという形に進化したのが西国三十三所の納経帳である、という可能性は否定しきれません。そうなると、西国三十三所の御宝印授与も六十六部廻国聖の納経請取状と並ぶ御朱印の起源ということになります。

西国三十三所の納経帳は、六十六部廻国聖の納経請取状から納経帳という流れとは別に出現したのか。この問題を解く糸口になったのが、文化10年(1813)の西国三十三所の納経帳でした。

文化10年(1813)西国三十三所の納経帳

この納経帳を見て、西国三十三ヶ所の納経帳は笈摺にいただいた閻魔大王の御宝印から独自に発展したものではなく、六十六部の納経帳から派生したものだということを確信するようになったのです。

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