飛騨一宮水無神社

飛騨一宮水無神社拝殿

岐阜県高山市一之宮町5323(Mapiongooglemap

飛騨一宮水無神社境内

飛騨国の一宮で旧国幣小社の水無(みなし)神社は、現在、法人名として飛騨一宮水無神社を称しています。参拝は平成23年8月。

水無(みなし)の名については「みぬし(水主)」の転訛とされ、また、宮川が水無神社付近で伏流水となり、「水無河原」と呼ばれることに依るともいわれます。「みなし(水成)」「みずなし」とも読まれ、「すいむ」と音読されることもあります。

飛騨一宮駅から宮川を渡り、国道41号線を越えるとすぐに水無神社の鳥居が見えます。

飛騨一宮水無神社鳥居

水無神社の鳥居。緑に囲まれた気持ちのよい境内です。

飛騨一宮水無神社絵馬殿

絵馬殿(旧拝殿)。高山市指定文化財。慶長12年(1607)高山藩主・金森長近によって建立されました。安永7年(1778)両部神道から唯一神道に改められた際、多くの仏堂や社殿が取り壊され、改築されましたが、この拝殿は残されました。明治3年(1870)高山県知事・宮原積は水無神社の社殿を入母屋造から神明造に改め、この拝殿も取り壊されました。しかし、氏子たちによって保管され、同12年(1879)願い出により元の位置に復元されました。昭和10年代、国費をもって社殿の大造営が行われた後、昭和29年(1954)現在の位置に移築、絵馬殿とされました。

飛騨一宮水無神社ねじの木

御神木・拗(ねじ)の木。左巻きにねじれた不思議な桧です。

その昔、氏子たちが切って普請に使おうとしたところ、一夜のうちに幹から梢に至るまでねじ曲がってしまったため、祟りを恐れて伐採は取りやめになったといいます。また、大原騒動の後、高山の中橋架け替えのため、代官・大原彦四郎が宮村に水無神社境内の大桧を差し出すよう命じました。しかし、大原騒動で多くの犠牲者を出した宮村の人々は大原の命に従うことをよしとせず、機転の利くものが拗の木を示し、「切ろうとしたところ、神意により一夜でねじ曲がりました」と報告したため、境内の他の木についても伐採が沙汰やみとなったそうです。その後、木は枯れてしまいましたが、霊木として保存されています。

飛騨一宮水無神社神馬舎

神馬舎。稲喰神馬(黒)と祈晴の神馬(白)という2頭の神馬が安置されています。

飛騨一宮水無神社、白川神社

白川神社。大野郡白川村の尾神・福島地区が御母衣ダムの建設で湖底に沈むことになったため、その産土神を飛騨の一宮である水無神社境内に遷座しました。

飛騨一宮水無神社拝殿

回廊に囲まれた神門をくぐると拝殿があります。

飛騨一宮水無神社狛犬

狛犬。上は神門内の木造のもの。下は拝殿前の石造の狛犬で、神門の狛犬を模したものだそうです。

飛騨一宮稲荷神社

奥に進むと、境内社の飛騨一宮稲荷神社があります。

目次

飛騨一宮水無神社の御朱印

飛騨一宮水無神社の御朱印

飛騨一宮水無神社の御朱印。中央の朱印は「水無神社」、その上は水瓢箪の神紋。右上は「皇城鎮護」。

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飛騨一宮水無神社の概要

水無神社(みなし じんじゃ)
正式名称:飛騨一宮水無神社
御祭神:御年神 /配祀:大己貴命、三穗津姫命、応神天皇、高降姫命、神武天皇、須沼比命、天火明命、少彦名命、高照光姫命、天熊人命、天照皇大神、豊受姫大神、大歳神、大八椅命
創建年代:不詳
鎮座地:岐阜県高山市一之宮町5323
社格等:式内社、飛騨国一宮、旧国幣小社
http://minashijinjya.or.jp/

【由緒】
創建年代は不詳で、神代にもさかのぼると言われますが、文献に初めて登場するのは平安時代、『三代実録』貞観9年(867)10月5日条の飛騨国従五位下水無神に従五位上を授けるという記事です。

以後、貞観10年(868)正五位下、同13年(871)正五位上、同15年(873)従四位下、元慶5年(881)従四位上と累進しています。延喜の制では小社に列しました。

中世には神仏習合が進み、両部神道の霊場として社僧が置かれ、本地堂が建立されて釈迦像を安置、「水無大菩薩」を称するようになりました。また、飛騨国一宮として朝野の崇敬を受け、天文23年(1554)には後奈良天皇が自筆の紺紙金泥大般若経を奉納しています。往時は18ヶ村3,700石の社領を有したと伝えられます。

室町時代、水無神社には12家の祝がおり、その棟梁は山下家と一宮家でした。一宮国綱は松倉城主の三木自綱と姻戚関係を結んで三木三沢と称し、家臣の森氏に神職を譲って自らは山下城主として武威を誇りました。しかし天正13年(1585)金森長近が飛騨に侵入、三沢は水無神社に立て籠もって抵抗したものの滅ぼされ、当社も壊滅的な打撃を受けました。

慶長12年(1607)高山藩主となった金森長近が社殿を造営、以来、歴代藩主、代官、郡代によって尊崇されました。

安永2年(1773)飛騨国一円を巻き込む大原騒動が起き、当社で大集会が行われました。当社の神職・山下和泉と森伊勢は騒動に連座して処罰され、同7年(1778)山下家と森家に代わって信州より梶原伊豆守家熊が招かれました。これを機に従来の両部神道から唯一神道に改め、境内の阿弥陀堂、鐘堂、仁王門を撤去、社殿の改築が進められました。また、神職の職名は大宮司に改められました。

明治4年(1871)国幣小社に列格。同5年(1872)社家が廃され、官選宮司が任命されることになりました。これにより同7年(1874)から同10年(1877)まで島崎藤村の父・島崎正樹(『夜明け前』の主人公・青山半蔵のモデル)が宮司として在職しています。

第二次大戦末期には、熱田神宮の御神体・草薙神剣が疎開のため、水無神社に遷されたこともありました。

宮川の源流になる位山は水無神社の神体山で、奥宮とされます。古例により、天皇陛下の御即位と伊勢神宮の御遷宮に際しては、位山のイチイの木で作った笏が水無神社より献上されます。

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