赤塚諏訪神社 板橋の田遊び

東京都板橋区大門11-1(Mapion/googlemap

赤塚諏訪神社

国の重要無形民俗文化財に指定されている赤塚諏訪神社の田遊びを拝観、あわせて御朱印をいただきました。

赤塚諏訪神社(あかつか すわじんじゃ)
正式名称:諏訪神社
旧称:十羅刹諏訪合社
御祭神:建御名方命
創建年代:長禄年間(1457~60)
例祭:9月27日
社格等:旧村社

【御由緒】
豊島郡下赤塚村の鎮守。『新編武蔵風土記稿』には十羅刹諏訪合社、『江戸名所図会』には十羅刹女の宮とあります。旧別当は常福寺(廃寺)。

社伝によれば、長禄年間(1457~60)赤塚城主の千葉自胤が信州の諏訪大社より御分霊を勧請し、武運長久を祈願したことを創祀とするといいます。寛永7年(1630)頃、十羅刹女を相殿に祀りましたが、明治の神仏分離により分祀されました。現在は境外末社・浅間神社の傍に祀られています。

古くから毎年正月13日に一年の五穀豊穣と子孫繁栄を祈る予祝行事「田遊び」が行われます(現在は2月13日)。昭和51年(1976)徳丸の北野神社の田遊びとともに「板橋の田遊び」として国の重要無形民俗文化財に指定されました。

赤塚諏訪神社の御朱印

田遊び当日は基本的に対応していないようですが、書き置きでよければということでお忙しいところを快く対応してくださいました。

赤塚諏訪神社の御朱印

中央の朱印は「諏訪神印」。

田遊び祭りの概念田遊び祭りの概念

赤塚諏訪神社の田遊び参観記

赤塚諏訪神社の田遊びは曜日に関係なく2月13日(本来は1月13日だったが、一月遅れでで、平日だと見に行くのが難しいのですが、今年は土曜日ということで、このチャンスを逃さないことにしました。因みに今年が閏年のため、来年は月曜日になります。

天気予報は夜から雨、しかもちょっとした嵐のようになるかも知れないということでしたが大丈夫と信じて、でも折りたたみ傘は準備して向かいました。

田遊びは午後7時からということでしたが、早めに一度参拝しました。

拝殿ともがり

拝殿の前には田遊びが行われる「もがり」が組み立てられていました。「もがり」の脇には神輿が据えられ、境内には正月飾りなどを積み上げた「お篝り」が準備されていました。

社務所にうかがうと氏子さんがいらっしゃったので、御朱印をお願いできないか聞いたところ、「今日はお祭りで宮司さんが忙しいから…」とのこと。そこへ宮司さんがいらっしゃって、「半紙に書いたものでよければ」と対応してくださいました。ありがとうございました。

いったん退去して食事を済まし、再び諏訪神社に着いたのは午後6時半過ぎ。すでに境内は大勢の観客が集まっていました。雨は少しぱらついたぐらいで何とか保ちそうでしたが、風がかなり強くなっていました。

下赤塚村の諏訪神社の田遊びは、すでに江戸時代には大昔からの古風を残した祭と認識されていたようで、『新編武蔵風土記稿』には「いと古雅の祭なり」、『江戸名所図会』には「もっとも鄙俗の習わしといえども、古きを失わざるを愛すべし」と記されています。

田遊びは社務所内での「謡曲」から始まります。

社務所での謡曲

所役に御神酒と沢庵が振る舞われます。

その後、宮司さんが拝殿に向かい、修祓、降神の儀、祝詞奏上が行われます。それから神輿が境外末社の浅間神社まで渡御します。

浅間神社の傍には十羅刹女の祠があります。折口信夫の『田遊び祭りの概念』によれば、かつて赤塚諏訪神社の田遊びは十羅刹女の春祭りと考えられていたようなので、浅間神社へというよりは、十羅刹女の祠に向かうと考えたほうが適切なのかも知れません。

ささらで道を清める子どもたち

行列の先頭はささら(青竹)で道を叩き清める子どもたち。

渡御行列

渡御行列。板橋区の教育委員会が作ったパンフレットでは「天狗らが先導し」となっています。普通、鉾を持ち、天狗の面をかぶって神輿を先導するのは猿田彦命なのですが、前掲『田遊び祭りの概念』によれば、田遊びには天狗がつきものということなので、こちらの場合は天狗が正しいのかも知れません。

浅間神社の広場に神輿を安置し、花籠の行事が行われます。

花籠と九字の舞

竹の先に五色の紙片が入った花籠がついており、太鼓に合わせて振ります。そこへ「破魔矢」や「駒」が突進して厄を落とします。上の写真は「破魔矢」。その後、獅子が悪疫を退散させる「九字の舞」を奉納します。

諏訪神社の境内に戻り、天狗が「もがり」の前で御鉾の舞(地鎮の舞)を行います。残念ながら、場所が悪かったので、きちんとした写真が撮れませんでした。

諏訪神社境内での花籠と九字の舞

それから再び花籠の行事と獅子による九字の舞があります。上の写真は子どもを乗せた「駒」。けっこう激しく振り回します。

田遊びの本番、「もがりの行事」。主導役の「大稲本」、補佐役の「小稲本」、そして「鍬取り」が、もがりの中で太鼓を田んぼに見立て、唱え言葉と所作により一年間の稲作の有様を演じます。

もがりの行事

紋付きを着ているのが大稲本、太鼓を叩いているのが小稲本でしょうか。町歩調べ、田打ち、苗代かき、大足ふみ、種まき、水かけ、鳥追い苗見、春田打ち、植田代かきと続いた後、所役が呼び込みをします。

よねぼ、太郎次、安女

まず、弁当を持った「よねぼ」が登場。藁で作られた人形で、「寿」と書いた紙が貼ってあります。次に「太郎次」と「やすめ」の夫婦が踊りながら登場し、もがりの前で抱き合います。

前掲『田遊び祭りの概念』によれば、「太郎次」は「田主(たあるじ)」で、田の精霊のことだそうです。また、「よねぼ」は子守りで、早乙女にまつわる「田ばらみ」の行事の初めの所作を略して結果だけ(すでに子どもが生まれている)を表したものだろうとします。ただ、実際に見た感じでは省略されたのではなく、太郎次とやすめが抱き合う所作に移動しているのではないかと思われます。だとすると、原因と結果の順番が逆になってしまっているわけですが。

この『田遊び祭りの概念』は、この記事を書いている最中に見つけたのですが、これを読んでから田遊びを見ると、おもしろさが倍増しただろうと思います。少々残念。青空文庫にあるのでkindle版でも無料で読めます。田遊びを見に行く人にはおすすめです。

この少し前に、正月飾りなどを積み上げた「お篝り」に点火されます。田遊びがもともと小正月の行事であることがよくわかります。

お篝り

折からの強風で盛大に燃え上がり、待機していた消防の人たちが大活躍でした。

引き続き、もがりの中では田植え、鳥追い、田草取り、田廻り、稲刈り、稲叢を積んで豊作を褒め称える倉入れで終わります。

「いと古雅の祭なり」「古きを失わざるを愛すべし」という200年前の『江戸名所図会』の評そのままの、素朴で味わい深いお祭りでした。派手な演出や楽しさを求める人には向いてないかも知れませんが。

田畑がなくなり、すっかり都市近郊の住宅街になってしまっても、こういう行事が伝えられている限り、かつてののどかな農村の面影、田畑で汗水流して働いていた先人の思いも生き続けていくのでしょう。そんなことを考えさせられました。

いいお祭りでした。

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