古今御朱印覚え書

御朱印に関する考察、寺社参拝、拝受した御朱印、昔の御朱印・納経帳などについてのメモ

四国八十八ヶ所は本来85ヶ所程度だったのではないか

      2016/07/17

四国68番琴弾八幡宮の納経
前回は、四国八十八ヶ所の「八十八」という数には、もともと深い意味はなかったのではないかということを述べました。

その理由として、四国八十八ヶ所が固定される時に、いきなり八十八ヶ所に限定されたわけではなく、まず85ヶ所程度の札所が成立し、語呂がいい「八十八ヶ所」という呼称ができ、それに合わせて札所の数が調整されたのではないかということを指摘しました。

今回は、これについて考えてみたいと思います。

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八十八ヶ所成立についての通説

伝承によれば、四国八十八ヶ所は弘仁6年(815)弘法大師が42歳の厄年に四国を巡拝し、八十八の札所を定めたとされています。

実際には古くから「四国の辺地」と呼ばれる海岸・山野を巡り歩く修行形態のあったことが『今昔物語』や『梁塵秘抄』に見え、これが四国遍路の原型になったと考えられています。若き日の弘法大師も、そのような修行者の一人でした。

四国遍路はかなり古くまで遡りますが、固定された札所が決まっていたわけではありません。数多くの札所から八十八の札所が選ばれ、固定されることによって「四国八十八ヶ所」が成立したわけです。その時期は室町時代から江戸時代半ばまで諸説ありますが、真念法師の『四国辺路道指南』が出版された貞享4年(1687)を下限として間違いないだろうと思います(それ以降とする説もあるにはありますが)。

札所の固定について、どの説を採るにせよ、まず「八十八」という数があって、その数に合わせて札所が選ばれたというのが前提になっています。「八十八」という数に意味があると考えるのもそのためです。先に88より少ない数の札所が成立して、その後88ヶ所に増やしたという説は見たことがありません。

元は1つの札所だったと考えられる3組6札所

なぜ、まず85ヶ所程度の札所が成立したと考えられるかを説明しましょう。

四国八十八ヶ所の中には、1つの札所が2つの札所になったと考えられるところが3組6ヶ所あります。44番大宝寺と45番岩屋寺、68番琴弾八幡宮(現・神恵院)と69番観音寺、73番曼荼羅寺と74番出釈迦寺です。

岩屋寺は大宝寺の奥の院で、『一遍聖絵』には「菅生の岩屋」(菅生は大宝寺の所在地・山号)とあります。明治初めまで大宝寺の管理下にあったようで、明治7年(1847)第一世住職が入っています。

出釈迦寺が曼荼羅寺の奥の院であることは寂本阿闍梨の『四国徧礼霊場記』にも明記されています。平安時代末の仁安2年(1167)に参拝した西行法師は『山家集』に「曼荼羅寺の行道所」と記しています。我拝師山の麓に寺ができたのは江戸時代になってのことで、元の札所は山頂近くにある現在の奥の院です。

68番神恵院と69番観音寺は、現在では一つの境内に二つの札所が同居していることで知られますが、江戸時代は隣接する琴弾八幡宮が68番札所で、観音寺は69番札所であると同時に琴弾八幡宮の別当寺でもありました。つまり、琴弾八幡宮と観音寺は13番札所の一宮神社と大日寺、57番札所の石清水八幡神社と栄福寺のような関係だったわけです。30番・37番・55番なども同様です。

天保12年琴弾八幡・観音寺

江戸時代の納経帳を見ると、ほとんどの場合、68番と69番は同じ人が書いています(ごく一部例外もある)。1ヶ所で2札所の納経を行うという形は江戸時代も同じでした。上の画像は天保12年(1841)の納経ですが、左下の印はどちらも「七宝山観音寺」という同じ印になっています。

実は観音寺と神恵院は「七宝山神恵院観音寺」という一つの寺の寺号と院号であって、68番琴弾八幡宮の別当としては神恵院を、69番札所としては観音寺を使っていたわけです。

四国八十八ヶ所の成立について考え始めた時から、68番琴弾八幡宮(神恵院)と69番観音寺がなぜそれぞれ札所になったのか、ということに疑問を持っていました。

もし他に適当な寺社がないというのであればわかるのですが、例えば讃岐だけでも海岸寺や旧松尾寺(金刀比羅宮)、與田寺、海蔵院など八十八ヶ所に劣らぬ由緒と規模を持つ番外札所がいくつもあります。また、土佐の石見寺のように元は札所だったという伝承を持つ番外札所もあります。敢えて奥の院や別当寺を独立した札所にする必然性はないないどころか、非常に不自然です。

つまり、それらの番外札所を八十八ヶ所に含めることができない事情があったのではないかと考えられるわけです。

江戸初期の四国遍路―澄禅『四国辺路日記』の道再現江戸初期の四国遍路―澄禅『四国辺路日記』の道再現

「大師御定ノ札所」

この謎を解くきっかけになったのは、承応2年(1653)に四国を巡拝した澄禅大徳の『四国辺路日記』でした。

『四国辺路日記』からは次のようなことがわかります。
1.すでに札所の数が「八十八」であるという言い回しがあった。
2.すでに「大師御定ノ札所」が決まっていた。
3.霊山寺から打ち始めるのが本来のルートという認識が確立していた。
4.澄禅は八十八ヶ所すべてを巡拝しているが、この時点で八十八ヶ所が固定していたか否かには肯定・否定の両論がある。
5.「世間流布ノ日記」つまり四国を巡拝した先人の日記を書写したものが流布し、ガイドブックのような役割を果たしていたらしい。

ここで注目したいのが「大師御定ノ札所」つまり弘法大師が定められた札所という言葉です。現在の79番天皇寺に相当する崇徳天皇社(現・白峰宮)のところで、「世間流布ノ日記」では崇徳天皇社が札所とされているが、「大師御定ノ札所」は金山薬師(現在は79番奥之院とされている)だという形で登場します。これは、すでに弘法大師の定めた札所が固定され、権威を持っていたことを示しています。

「大師御定ノ札所」の存在は、寛永15年(1638)の『空性法親王四国霊場御巡行記』からもうかがえます。これは現存する四国霊場の巡行記のうち最古のものとされます。

この内容について、一応八十八ヶ所すべてが含まれていますがかなり簡略で、それ以外の寺社も札所非札所の区別なく取り上げられています。そのため、札所が固定されていなかった証拠として挙げる論者もいます。

しかし、この巡行記の最後のほうに「大洲領には札所なし」という一節があります。金山出石寺や十夜ヶ橋などの番外札所を挙げているにも関わらず「札所なし」というのですから、すでに札所が固定されていたことは間違いありません。

そこで問題になるのは、「大師御定ノ札所」はいつ頃成立したのかということと、それは最初から88ヶ所だったのかということです。言い換えれば「四国八十八ヶ所は、いつ、どのようにして成立したのか」ということでもあります。

これについて、私はまず16世紀半ば頃までに85ヶ所程度の「大師御定ノ札所」が確立し、江戸時代になって「四国八十八ヶ所」という呼び方が広がり、それに合わせて札所を88ヶ所に増やしたと考えるわけです。

次回、これについて説明します。

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Comment

  1. たけのしん より:

    こんにちは。私は基は80ヶ所で後から8ヶ所足された説もあると考えているのですが、同一札所からの分立論は面白いですね。岩屋寺と出釈迦寺が奥之院なのにナンバー入りしてるのは謎のひとつです。観音寺も元は一体ですからね。4と5とか、35と36もあるかもしれませんね。あと37〜40あたりも怪しい。

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