叡福寺〈文政8年〉

文政8年『神社仏閣順拝帳』
磯長山 聖霊院 叡福寺
河内国石川郡太子村(大阪府南河内郡太子町太子)

叡福寺の納経

西国5番の葛井寺に参拝した太郎助は、6番の壺坂山南法華寺に向かう途中、聖徳太子の墓所(磯長墓)がある磯長山叡福寺に参拝しています。ここには聖徳太子と生母・穴穂部間人皇后、婦人の膳部大郎女が葬られていることから「三骨一廟の霊墓」と呼ばれています。

叡福寺は河内三太子の一つに数えられ、羽曳野市の「中之太子」野中寺、八尾市の「下之太子」大聖勝軍寺に対して「上之太子」と称されます。

西国の札所ではありませんが、巡礼路沿いにあるので、番外札所的な感じで参拝する人も多かったのでしょう。因みに新西国霊場では客番札所となっています。

寺伝によれば、聖徳太子は27歳の時にこの地を墓所の候補地とし、47歳の時に御廟(墓所)を築かれました。太子の没後、推古天皇が太子の墓所をお守りするために坊舎を建立したのが叡福寺の起源とされます。

神亀元年(724)聖武天皇が太子の追善供養のため、東西二院からなる伽藍を整備し、東院を転法輪寺、西院を叡福寺と名付けました。

法隆寺・四天王寺と並ぶ聖徳太子信仰の中心地として、皇室から庶民まで広く尊崇されました。平安時代には四天王寺と当時の太子廟を参拝するのが一つの巡礼コースになっていたそうです。

また、聖徳太子は日本仏教の祖として尊崇されることから高僧の参拝も多く、叡尊・親鸞・日蓮・一遍など鎌倉時代に新しい仏教を開いた祖師たちも太子の御廟に参籠しています。現在でも各宗派の管長が就任した際には奉告のために参詣するのが慣例になっているそうです。

天正2年(1574)織田信長の兵火で焼失しましたが、その後、復興を遂げました。境内に現存する建物の中でもっとも古い聖霊殿(太子堂、重要文化財)は慶長8年(1603)後陽成天皇の勅願により豊臣秀頼が建立したもので、聖徳太子16歳の時の御尊像をお祀りしています。その他、承応元年(1652)再建の多宝塔、享保17年(1732)再建の金堂などは、太郎助参拝当時からの建物です。

叡福寺の納経

叡福寺の納経

順拝帳を見ると、墨書は右から順に

「奉納経」
「河州上之太子」
「勅願所」「聖徳皇太子御廟所」
「年預」
「文政八酉天五月廿八日」「行者丈」

叡福寺の御本尊は如意輪観音ですが、納経は聖徳太子の御廟としてのものです。

中央の朱印、左下の黒印は判読できません。

聖徳太子伝聖徳太子伝

叡福寺の概要

磯長山 聖霊院 叡福寺(えいふくじ)
現名称:磯長山 聖霊院 叡福寺
通称:上之太子
御本尊:如意輪観世音菩薩
創建年代:伝・神亀元年(724)
開基:伝・聖武天皇
河内国石川郡太子村(大阪府南河内郡太子町太子)
宗派等:真言系単立(もとは高野山真言宗別格本山)

文政8年『神社仏閣順拝帳』
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