私は四国八十八ヶ所の成立について、遅くとも16世紀半ば頃までに85ヶ所程度の「大師御定ノ札所」が成立し、江戸時代になって語呂のよい「四国八十八ヶ所」という呼称が流布し、それに合わせて札所の数を調整して88ヶ所になったと考えています。
「大師御定ノ札所」の成立はいつか
かつては室町時代に四国八十八ヶ所が成立した(言い換えれば札所が固定された)というのが通説でした。しかし、その根拠となった文明3年(1471)の高知県本川村越裏門地蔵堂の鰐口銘の解釈に疑義が提示され、現在では江戸時代初めとする説が主流だと思われます。
それには、「四国八十八ヶ所」という呼称が確実に登場するのが江戸時代になってからだというのも重要な根拠となっているようです。
しかし、江戸時代初期の札所寺院の状況、また他の有力寺院の状況を考えると、この時期に現在の八十八ヶ所を選んだというのは無理があると思うのです。
承応2年(1653)に四国を巡拝した澄禅大徳の『四国辺路日記』や貞享4年(1687)に真念法師が著した『四国辺路道指南』、元禄2年(1689)真念法師の情報を元に寂本阿闍梨がまとめた『四国徧礼霊場記』などには、当時の各札所の様子が記されています。
四国八十八ヶ所の寺院、特に阿波・讃岐・伊予の札所は天正年間の長宗我部元親による四国統一と、それに続く豊臣秀吉の四国征伐によって多くが壊滅的な打撃を受けました。比較的早くに復興した寺院もありますが、かろうじて小さなお堂だけが残っているというところもありました。
一方、遍路は必ず参拝したという金比羅大権現(当時は真言宗寺院の象頭山金光院松尾寺)は遠近の信仰を集め、慶安元年(1648)に徳川家光から朱印領330石を受けるなど繁栄を極めていましたが、八十八ヶ所には入っていません。そして、金光院が金毘羅信仰を前面に出して発展するのは天正・慶長の頃からなのです。
つまり、八十八ヶ所に選ばれた札所の顔ぶれを見れば、「大師御定ノ札所」の成立は長宗我部元親による四国統一以前と考えるのが妥当だろうと思うわけです。
巡拝ルートの問題
また、一番札所の問題もあります。
澄禅の『四国辺路日記』、真念の『四国辺路道指南』ともに霊山寺から阿波北分の十里十ヶ所を巡拝するのが弘法大師の巡拝されたルートとしています。伝承では弘法大師に由来しますが、実際には関西や東国から巡礼する人にとって撫養(鳴門市)で上陸して霊山寺に向かうルートが便利だったからです。
しかし、『四国辺路日記』によれば、澄禅が徳島の持明院(徳島藩の真言宗の本寺)で四国巡拝の手形を受け取った時、「中古以来」十里十ヶ所を残して井戸寺から観音寺、国分寺と巡るのがよくなっています。
ところが、澄禅は徳島からだと霊山寺からのルートは不便なので、井戸寺から打ち始めて最後に十里十ヶ所を打つのがよいというアドバイスを受け、その通りに巡拝しています。また、真念も同じ理由で井戸寺からの巡拝を勧めています。
そうなった時期について『四国辺路日記』には「中古以来」としていますが、蜂須賀家政が阿波の領主となり、徳島城を築いた天正13年(1585)以降ということになるでしょう。阿波の中心が勝瑞(現・板野郡藍住町)から渭津(徳島)に移ったため、船便も渭津行きが中心になったのでしょう。
逆に言えば、井戸寺から巡拝するのが主流になってから60年経っているにもかかわらず、霊山寺から巡拝するのが本来だという認識が定着しているわけで、「大師御定ノ札所」が天正以前に確立していた一つの証拠になると思います。
なお、江戸時代の納経帳を見ると、井戸寺から巡拝した例はほとんどなく、78番道場寺(現・郷照寺)から始めている例が大半です。金比羅参詣の流行により、讃岐の丸亀に上陸するのが便利になったためだと思われます。
阿波一宮の問題
「大師御定ノ霊場」の成立時期を推測する材料として、13番札所と33番札所の問題があります。
本来、四国八十八ヶ所には各国の一宮が含まれていました。土佐は土佐神社、伊豫は大山祇神社(地御前=遙拝所の別宮大山祇神社が事実上の札所となる)、讃岐は田村神社(早くに神仏分離が行われ、旧別当の一宮寺が札所となる)ですが、問題は阿波です。
一般に阿波の一宮とされるのは鳴門市の大麻比古神社ですが、札所にはなっていません。別当は1番札所の霊山寺ですが、あくまで霊山寺自体が札所であって、他国の一宮のように神社が札所で別当が納経を行うという関係ではありません。
阿波国の札所で一宮とされるのは13番の一宮神社です(現在は旧別当の大日寺)。
詳細は省きますが、近年の説ではもともと阿波国の一宮は一宮神社でしたが、南北朝~室町時代、阿波の守護となった細川氏が、敵対勢力である一宮氏が神主を務める一宮神社に替えて、大麻比古神社を一宮としたのではないかと考えられています。
一宮神社が札所で大麻比古神社が札所ではないという事実は、「大師御定ノ札所」の成立時期を推測する一つの手がかりになると思われます。
以上のようなことを考えると、「大師御定ノ札所」は遅くとも天正年間以前に定着し、権威を確立していたと考えるのが妥当です。阿波一宮の問題を考えれば、15世紀に遡る可能性もあると思います。
四国八十八ヶ所はいつ成立したのか
次に、天正以前に確立していた「大師御定ノ札所」は88ヶ所だったかということを考えます。
「大師御定ノ札所」が最初から88ヶ所だったということであれば、「四国八十八ヶ所」は天正年間以前に成立していたということになります。しかし、私は44番と45番、68番と69番、72番と73番という3組6ヶ所の札所を根拠として、「大師御定ノ札所」は88より少なく、たぶん85ヶ所だっただろうと推測するわけです。
「たぶん85ヶ所だっただろう」とするのは、45番と73番については独立した札所であった可能性も否定できないと考えるからです。逆に60番横峰寺が64番前神寺(本来の札所は石鎚山)の前札所=遙拝所だった可能性もあると思います。しかし、ほぼ間違いなく68番と69番はもともと一つの札所でしょう。
では、なぜ八十八ヶ所になったのか。
「四国八十八ヶ所」という言い方が登場するのは江戸時代になってからとされます。
半端な数を語呂のいい数に言い換えるというのはよくあることです。例えば令制国の数は68ヶ国ですが、一般には「六十六ヶ国」とか「六十六州」といいます。
あるいは弥勒菩薩の下生まで「五十六億七千万年」といいますが、その根拠となる経典の計算結果は5億7600万年です。それが、いつしか語呂のいい56億7千万年となったわけです。
「四国八十八ヶ所」も、実際は88ヶ所ではなかったが、語呂がいいので「八十八ヶ所」というようになったのだと思います。
一方で、実態と違う呼び名が定着すると、その食い違いをなくそうとしたり、合理的に説明しようとする心理も働きます。例えば、令制国の六十六ヶ国であれば、対馬国と壱岐国は「嶋」であるとして六十六ヶ国に入れないといった類いです。四国八十八ヶ所には、札所の数を八十八ヶ所に合わせようとしたのでしょう。
それが、神社と別当寺がともに札所になったり、奥の院が独立した札所になった原因だと思います。
他の弘法大師ゆかりの寺院を入れてもよいようなものですが、すでに「大師御定ノ札所」が権威あるものとして確立していたため、大師が選んだわけではない寺院を勝手に入れるというのは心理的な抵抗が大きかったのでしょう。そこで、すでにある札所を分割する形で解決したのでしょう。
そして、八十八ヶ所が固定された時期については、『四国辺路日記』には八十八の札所が揃っていることから考えて、それ以前には成立していたと考えるのが自然だろうと思います。ということで、江戸時代の初め、17世紀の前半と考えるのが妥当ではないでしょうか。
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