武田八幡宮

山梨県韮崎市神山町北宮地1158(Mapiongooglemap

武田八幡宮

武田八幡宮(たけだ はちまんぐう)
正式名称:武田八幡宮
御祭神 中殿:誉田別命 /左殿:足仲津彦命 /右殿:息長足姫命 /相殿:武田武大神
創建年代:弘仁13年(822)
例祭:10月14日
社格等:旧県社

【御由緒】
社伝によれば、弘仁13年(822)嵯峨天皇の勅命により、武田武大神(武田王、日本武尊の御子)を祀る社に宇佐八幡を勧請・合祀し、武田八幡宮と称したことを創祀とします。また、弘法大師が当地で夢に僧形八幡を感得し、社に祀ったとも伝えられます。貞観年間(859~76)石清水八幡宮を勧請しました。

新羅三郎義光以来、甲斐源氏は武田八幡宮を尊崇しました。特にその曾孫・信義は当社で元服して武田太郎を称し、氏神として深く崇敬しました。

天文10年(1541)父・武田信虎を追放して甲斐の国主となった武田晴信(後の信玄)は武田八幡宮本殿の造営に着手し、同12年(1543)完成しています。また、武田勝頼の夫人(北条氏政の妹)は、織田・徳川連合軍の侵攻によって滅亡寸前となった勝頼の戦勝を祈願し、願文を奉納しています。

武田氏に替わって甲斐を領有した徳川家康は当社の社領を安堵、また平岩親吉に命じて社殿の造営を行ったとされます。江戸時代は27石2斗余の朱印地を寄進されていました。

武田八幡宮の御朱印

社務所は無人でしたが、連絡先があったので電話したところ、たぶん氏子の責任者の方だと思いますが、対応していただけました。お忙しいところ有難いことです。もし、いただけなければ、達成感も爽快感も吹き飛んでガックリしていたところでした。道のりが大変だっただけに。

武田八幡宮の御朱印

武田八幡宮の御朱印。上の印は「甲斐武田」。下の印は神紋と思われますが、武田菱と花菱の中間のような感じです。武田氏は花菱を裏紋として使ったようですが、それと関係するのでしょうか。

<武田信玄と戦国時代>武田信虎・勝頼と武田家の系譜 (歴史群像デジタルアーカイブス)<武田信玄と戦国時代>武田信虎・勝頼と武田家の系譜 (歴史群像デジタルアーカイブス)

武田八幡宮の参拝記

甲斐武田氏の氏神・武田八幡宮は韮崎駅の西約3kmにあります。距離はそれほどではありませんが、真夏にレンタサイクルで行くには少々大変なところでした。

参拝は平成25年の8月。天気は良好、言い換えればとても暑い日でした。

韮崎駅でレンタサイクルを借り、さっそく武田八幡宮へ。約3.5kmの道のりを舐めていました。

釜無川を渡り、少し北上して韮崎西中を過ぎると、武田八幡宮への参道がまっすぐ続いています。のどかな田園風景の中、風も吹いて気分は上々です。

武田八幡宮二の鳥居

武田八幡宮二ノ鳥居。寛政元年(1789)の再々興。武田八幡宮入口の交差点を過ぎて北宮地の集落に入ったあたりにあります。木造の見事な明神鳥居で、山梨県指定文化財。このあたりからだんだん傾斜がきつくなり、最後は自転車を下りて押すことに。

武田八幡宮石鳥居と総門

石鳥居と総門。石鳥居と石垣は県の文化財に指定されています。両脇の杉の大木や境内の樫の樹林は「武田八幡宮境内の樹叢」として韮崎市の天然記念物。静かで厳かな印象を与えます。

ここまでたどり着いた時には汗だくのへとへとでしたが、着いたところがこういう神気あふれる神社だと、途中の苦労も忘れてしまいます。車で来れば苦労もないわけですが、達成感もありませんから…

武田八幡宮、一石百観音石像

市指定文化財の一石百観音石像。

武田八幡宮舞殿

舞殿。総門から石段を登ったところにあります。境内は惣門-石段-舞殿-石段-社殿となっています。

武田八幡宮拝殿

拝殿。幕には武田菱。

武田八幡宮若宮八幡

若宮八幡社(手前の社殿)。県指定文化財。御祭神は大鷦鷯命(仁徳天皇)

武田八幡宮本殿

本殿。天文10年(1541)武田晴信(信玄)が再建したもの。檜皮葺の三間社流造で、国の重要文化財。

武田八幡宮、為朝神社

少し離れたところに源為朝を祀った為朝神社があります。元暦元年(1184)武田信義が為朝の画像と大太刀を奉納し、その神霊を祀ったことに始まり、かつては疱瘡除けの神として信仰を集めたそうです。

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