文政8年『神社仏閣順拝帳』
四国38番 蹉跎山 補陀落院 金剛福寺
土佐国幡多郡足摺村(高知県土佐清水市足摺岬)
37番五社大明神・岩本寺から38番金剛福寺までは約80km。四国八十八ヶ所では最も長い道のりになります。太郎助は37番の翌々日、3月26日に参拝したようです。
金剛福寺は四国の最南端、足摺岬の先端近くにあります。この地は観世音菩薩の浄土である南方補陀落山との境とされ、嵯峨天皇の御真筆とされる「補陀落東門」の勅額が伝えられています。補陀落山を目指して船出する「補陀落渡海」の出発地としても知られています。
山号の「蹉跎」の辞書的な意味は「つまずくこと」ですが、「足摺(地団太を踏むこと、本来の意味は倒れた状態で足をすり合わせて泣き嘆くこと)」と同じ意味として使っているようです。つまり蹉跎山=足摺山で、実際、太郎助の巡拝帳もそうですが、現在でも納経帳には「足摺山」と書かれています。
寺伝によれば、嵯峨天皇の勅願により、弘法大師が自ら刻んだ三面千手観音を本尊として開創しました。大師が唐より帰国する際、日本に向けて投じた五鈷杵(金剛杵)が当地に落ちたことに因み、金剛福寺と名付けたといいます。
金峰上人が住持であった時、常に天魔たちが修行の邪魔をしました。上人がそれらを呪伏したところ、天魔たちは嘆き悲しんで足摺り(蹉跎)をしたことから、山号を月輪山から蹉跎山に改めたといいます。
平安時代以来、摂関家藤原氏一門の外護を受けて繁栄しました。多田満仲による多宝塔の建立、源頼光による堂塔の修理など源氏一門による崇敬も伝えられています。土佐一条氏、長曽我部氏も当寺を庇護し、一条氏の全盛時代には寺領3,000石を誇ったといいます。
江戸時代、土佐藩の2代藩主・山内忠義は堂塔を修復再興し、以後も諸堂の建立や修理、再建が行われました。元禄2年(1689)の『四国徧礼霊場記』には多くの堂塔や塔頭が建ち並ぶ境内の様子が描かれています。太郎助もその繁栄の様子を見たことでしょう。
金剛福寺の納経
『順拝帳』を見ると、墨書部分は右から順に
「奉納」
「千手大士」
「足摺山」
「酉三月廿六日」
中央の朱印は火炎宝珠に千手観音の種字「キリーク」、右上は「四国三十六番」、左下は「金剛福寺」。
金剛福寺の概要
足摺山 補陀落院 金剛福寺(こんごうふくじ)
現名称:蹉跎山 補陀落院 金剛福寺
御本尊:三面千手観世音菩薩
創建年代:弘仁13年(822)
開山:弘法大師
所在地:土佐国幡多郡足摺村(高知県土佐清水市足摺岬)
宗派等:真言宗豊山派(当時は仁和寺末)
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