西国24番 中山寺〈文政8年〉

文政8年『神社仏閣順拝帳』
西国24番 紫雲山 中山寺
摂津国川辺郡中山寺村(兵庫県宝塚市中山寺)

西国24番中山寺の納経

江戸から明治にかけての西国三十三所の案内などを見ると、中山寺は日本で最初の観音霊場と考えられていたようです。西国三十三所開創の縁起においても重要な役割を果たしています。

寺伝によれば聖徳太子の開創で、御本尊の十一面観音はインドの勝鬘夫人(『勝鬘経』の主人公。舎衛(コーサラ)国の波斯匿王の娘で、阿踰闍(アヨーディヤー)国王の妃)の姿を写したとされる尊像です。ただし、『摂津名所図会』には、聖徳太子が前世で舎衛国に生まれた時、一刀三礼して作った像だとあり、江戸時代にはそのように考えられていたのでしょう。

現在の伽藍は、荒木村重の乱による焼失の後、豊臣秀頼の寄進によって再興されたものです。

中山寺

中山寺『摂津名所図会』国会図書館蔵

ところで、西国三十三所の開創については長谷寺の徳道上人によって開かれたと伝えられています。

養老2年(718)徳道上人は病のために亡くなり、冥土に赴きますが、閻魔王より宝印を授かり、「滅罪のための三十三ヶ所の観音霊場を開いて人々に巡礼を勧めるように」と告げられて現世に戻ります。上人は閻魔王の教えの通り、日本最初の観音霊場である中山寺を一番として三十三所の霊場を定めました。しかし人々が上人による巡礼の勧めを受け入れなかったため、宝印を中山寺の石櫃に納め、機が熟すのを待つことにしました。

それから約270年後、花山法皇が那智山で参籠しているとき、熊野権現より三十三所の観音霊場を再興するようにとの託宣を受けました。法皇は仏眼上人の案内によって中山寺に納められた宝印を探しだし、書写山圓教寺の性空上人を先達とし、中山寺の弁光僧正らを伴って観音霊場を巡拝、再興しました。この時、一番札所が那智山に改められたと伝えられます。

ところが、西国三十三所札所会や中山寺の公式サイトその他を見ると、徳道上人による開創や花山法皇による再興の伝承については書かれているのですが、上人が中山寺を一番札所に定めたということは触れられていません。そのため、なぜ宝印を中山寺に納めたのかという理由がわからなくなっています。

西国三十三所の巡礼に関する最古の記録は鎌倉時代初期に成立した『寺門高僧記』の行尊伝と覚忠伝です。行尊の巡礼は寛治4年(1090)頃のこととされ、三十三所の札所は現在と同じ組み合わせですが、一番を長谷寺、三十三番を三室戸寺としています。また、その後巡礼した覚忠も同じ三十三ヶ寺を巡っていますが、一番を那智山、三十三番を三室戸寺としています。

これらの資料に基づいて中山寺が一番であったという史実はなかったと判断され、開創の伝承から省かれたのではないかと思います。

一方、現代では徳道上人が閻魔王から三十三の宝印を授かったとしており、これを巡礼でいただく御朱印の起源としています。しかし、これは大正・昭和以降に付け加えられた要素であって、明治以前の資料では閻魔王から授かった宝印が一つとなっていることは、すでに「御朱印西国三十三所由来説について(下)」で論じたとおりです。

中山寺の納経

西国24番中山寺の納経

順拝帳を見ると、墨書部分は右から順に

「奉納経」
「摂州中山寺伽藍」
「年預」
「酉五月四日」

中央の宝印は十一面観音の種字「キャ」で、周囲は神鏡と雲形台ではないかと思います。右上は白抜きで「廿四番」、左下は判読しづらいのですが「中山寺」ではないかと思います。

「年預」というのは寺院の集会・行事の運営を指導し、事務を執る職のことで、「一年間の事務を預かり行う」という意味に由来します。中山寺の場合、塔頭寺院が一年交替で勤めましたが、寺の事務だけではなく、中山寺村の庄屋の職務も担当していたようです。

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中山寺の概要

紫雲山 中山寺(なかやまでら)
現名称:紫雲山 中山寺
御本尊:十一面観世音菩薩
創建年代:用明天皇元年(586)
開基:聖徳太子
所在地:摂津国川辺郡中山寺村(兵庫県宝塚市中山寺)
宗派:真言宗中山寺派大本山
http://www.nakayamadera.or.jp/

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