隅田川七福神 開祀二百年(平成30年)

 

三囲神社鳥居

平成30年、隅田川七福神が開祀二百年を迎えるということで、約10年ぶり2度目の巡拝をしました。

三が日の混雑を避けて4日の午後に参拝。それなりに巡拝の人は多かったものの、ほとんど待ち時間もなく参拝することができました。

隅田川七福神の歴史

隅田川七福神は、向島百花園に集った大田南畝(蜀山人)や谷文晁、酒井抱一といった江戸の文人墨客たちが、主人の佐原鞠塢〔さはら きくう〕愛蔵の福禄寿に目をつけ、向島近辺で七福神を選び、正月の楽しみとしようと思いついたことに始まります。

鞠塢の福禄寿に三囲神社の大国・恵比寿、弘福寺の布袋尊、長命寺の弁財天、多聞寺の毘沙門天と六福神までは揃ったものの寿老人が見当たりません。そこで、百花園のある寺島村の鎮守の白鬚大明神に目をつけ、白い髭なら老翁だろうから寿老人に相応しいということにして、目出度く七福神が揃ったという話はよく知られています。

その年代は伝わっていないのですが、大正7年(1918)に「隅田川七福神百年記念」という扇子が作られていることから、文政元年(1818)であろうと考えられています。そして平成30年(2018)で二百年ということになるわけです。

東京に数ある七福神霊場の中でも、江戸時代から続くのは谷中七福神、元祖山手七福神、隅田川七福神の3ヶ所です。これらの内、享和3年(1803)の『享和雑記』にその原型が記される谷中、もしくは安永4年(1775)の標石が残るとされる山手のどちらかが最も古く、隅田川七福神は3番目ということになります。

しかし、谷中七福神は谷中近辺に祀られた七福神を適宜選んで参拝するもので、明治の終わりでも現在の7ヶ寺に固定されていたわけではありません。また、元祖山手七福神でも札所の入れ替わりがあり、最終的に現在の札所になったのは昭和59年のことです。そういう意味では、もっとも早く現在の形が確定した七福神霊場ということができるでしょう。

幕末から明治にかけて衰退しますが、明治31年(1898)頃に隅田川七福会が結成され、七福神巡りが再興されます。明治41年(1908)には榎本武揚など著名人の揮毫による七福神碑が建立され、明治44年(1911)からは七福神会による巡拝路の整備も進められて、庶民の間に七福神巡りが広がったそうです。

明治44年(1911)の『東京年中行事』(東洋文庫)には、明治33年(1900)に小松宮彰仁親王がお忍びで巡拝された頃から参拝者が増えてきた、というようなことが書かれています。その年は御分体を100体ほど作り、小松宮に献上した余りを授与したが参拝者に行き渡らず、翌年は200体、翌々年は300体を作ったが十分でなかったため、その頃は3年あるいは5年かけて揃えていた。4,5年前から盛んになり、毎年1000体作るようになったので、今では十分行き渡るようになったなど、隅田川七福神が賑わいを取り戻していった様子を伺うことができます。

隅田川七福神の巡拝方法

隅田川七福神宝船

隅田川の七福神巡りでは、6社寺に参拝して七福神の御分体と宝船を集めていくというのが江戸時代以来の伝統でした。

上記『東京年中行事』には向島百花園で御分体について説明してくれたお爺さんの「(蜀山人らが隅田川七福神を始めた)その頃は一種の遊びとして行われたものですが、今は矢鱈に拝むばかりになってしまいました」という言葉が紹介されています。つまり、御分体を集めて楽しむというのが七福神巡りの主目的だったようです。

それに対して、御朱印をいただくというのは比較的新しい習慣だと思われます。たぶん、大正から昭和にかけて、御朱印やスタンプがブームになってからのことではないでしょうか。

七福神の御分体は黒一色の焼き物、宝船も白一色の陶器で、他の七福神霊場に比べると素朴なものです。『東京年中行事』に「高さ一寸ばかりの黒塗りの焼き物」とあるので、今も昔ながらの姿を守っているようです(因みに宝船については「不格好な所がかなり面白くできている」と書いていますが、これについては論評を避けます)。

参拝の順序については、各寺社は隅田川沿いに点在しており、一番南の三囲神社からでも、北の多聞寺からでもよいとされています。もともとは宝船が海から上がってくることに見立て、川下の三囲神社から川上の多聞寺に向かったそうですが、現在では多聞寺から始める人も多いそうです。

しかしせっかくの開祀二百年ですから、前回の巡拝と同様、三囲神社から始めることにしました。

三囲神社(大国神・恵比寿神)

三囲神社社殿

まず都営地下鉄浅草線の吾妻橋駅から歩いて三囲神社へ。三井グループの崇敬神社で、社前には三越が奉納した隅田川七福神の旗が掲げられています。拝殿前から二の鳥居まで行列ができていましたが、地元の方の初詣ばかりではなく、仕事始めの参拝も多かったようです。

拝殿の行列に並ぶと時間がかかるため、横からお参りして、七福神の大国神・恵比寿神が祀られている境内社に向かいました。

三囲神社大国恵比寿社

大国神・恵比寿神が祀られているのはこちら。隅田川七福神の公式サイトには末社の月読命祠となっていますが、『平成「祭」データ』では大国恵比寿社。社殿前の鳥居には「大国神 恵比寿神」と書かれた額が掲げられていますが、社殿の神号額は「月読尊」となっています。

三囲神社大国恵比寿社内社殿

御神像を納める内社殿。文久3年(1863)三井家が寄進したもので、製作したのは清水組(現在の清水建設)の棟梁・二代清水喜助です。

また、大国神と恵比寿神の御神像も、元は越後屋(現在の日本橋三越)に祀られていたものと伝えられています。

三囲神社の御朱印

三囲神社でいただいた御朱印。通常は「角田川七福詣」となっている右上の印が「開祀弐佰年記念 隅田川七福神」となっています。

弘福寺(布袋尊)

弘福寺

次は三囲神社から歩いて5分ほどの弘福寺。布袋尊を祀ります。明代の建築様式を色濃く残す本堂や山門が印象的な黄檗宗の禅刹です。

布袋和尚は唐代に実在した釈契此という禅僧で、中国の禅宗では弥勒仏の化身として仏堂に祀るのが通例とされました。黄檗宗ではその伝統を受け継ぎ、総本山萬福寺をはじめとする各寺院に祀られています。

弘福寺布袋尊像

大雄宝殿(本堂)前に祀られた布袋尊の像。

当初、弘福寺では山門に布袋尊の木像を祀っていましたが、安政の大地震で失われてしまい、その後は徳川綱吉から拝領した狩野探幽筆の画像で代用していたそうです。現在の像がいつ頃から祀られているかは確認できていません。

弘福寺の御朱印

弘福寺、布袋尊の御朱印。中央の朱印は「福徳布袋」ではないかと思われます。

長命寺(弁財天)

長命寺本堂

弁財天を祀る長命寺は、弘福寺と隣接しています。元は常泉寺という小庵でしたが、3代将軍徳川家光が鷹狩りの途中で腹痛を起こし、この寺の住職が弁財天に祈願した井戸水で薬を飲むとたちまち快癒したことから、長命寺の名を賜ったと伝えられます。

境内の一角には幼稚園がありますが、まだお休み中のようでした。

弁財天像

弁財天は本堂内で御開帳されていました。八本の腕を持つ八臂弁財天の小像です。

長命寺の御朱印

長命寺、弁財天の御朱印。中央の朱印は宝珠に「満福長命」。

向島百花園(福禄寿)

向島百花園

長命寺から向島百花園までは約15分。三が日は入場無料ですが、4日以降は入園料150円が必要になります。あまり花のない冬場のことで、入場者の大半は七福神巡りの人のようでした。

向島百花園は、文化元年(1804)江戸で骨董商を営んでいた佐原鞠塢によって開かれました。亀戸の梅屋敷に対して新梅屋敷と呼ばれ、江戸近郊の行楽地として人気を集めました。その評判を聞いた十一代将軍・徳川家斉も訪れたといいます。

現在、東京に残る江戸時代以前の庭園の多くは大名屋敷の庭などですが、向島百花園だけは江戸の町人文化の粋を今に残すものです。昭和51年(1976)国の名勝史跡に指定されました。

向島百花園福禄寿尊堂

向島百花園の福禄寿尊堂。園内の片隅にある小さな御堂です。

向島百花園福禄寿

福禄寿堂に祀られている佐原鞠塢愛蔵の福禄寿。200年前、この像がきっかけで隅田川七福神ができたのでした。

向島百花園の御朱印

向島百花園、福禄寿の御朱印。揮毫は「福禄寿」をまとめた文字で、大田南畝が考案し、佐原鞠塢に贈ったものです。七福神の御開帳期間のみ揮毫されるとのこと。右上には三囲神社と同じく「開祀弐佰年記念 隅田川七福神詣」の印が押されています。

向島百花園春の七草

春の七草。宝船に乗った七福神に見立てているんでしょうか。

白鬚神社(寿老神)

白鬚神社

白鬚神社は向島百花園のある寺島村の鎮守。歩いて5分余りです。

平安時代の天暦5年(951)慈眼大師良源が関東に下向した際、神託を受けて近江国比良山麓の白鬚大明神を勧請したと伝えられています。

大田南畝らが隅田川七福神を選んだ時、向島近辺に寿老人が見当たらなかったため、白鬚大明神なら白い髭の老翁だろうから寿老人に相応しいということで、目出度く七福神が揃ったという話はすでに述べた通りです。そのため、隅田川七福神では「寿老人」とは言わず「寿老神」と称しています。

ところが、それに先立つこと30年余りの天明4年(1784)大田南畝が著した黄表紙『返々目出鯛春参〔かえすがえす めでたい はるまいり〕』で江戸の七福神を選んでいるのですが、その中で向島の白鬚大明神を寿老人に当てているのだそうです。そのため、むしろ白鬚大明神=寿老人のほうが先だったのではないかという指摘もあります。

白鬚神社拝殿

白鬚神社の拝殿。ここでは御祭神を寿老人(寿老神)に見立てるため、御開帳は行われません。

白鬚神社の御朱印

白鬚神社、寿老神の御朱印。通常、左下の鹿の印には「白鬚神社」の文字が入るのですが、開祀二百年ということで「隅田川七福神二百年記念」となっています。

多聞寺(毘沙門天)

多聞寺山門

白鬚神社から多聞寺までは徒歩約30分、一番の長丁場になります。到着した時には日がかなり西に傾いていました。バスを利用する人もいるそうですが、多門寺の最寄りのバス停に向かうバスは1時間に1本ほどしかないので、使い勝手はよくないと思います。

多聞寺の山門は珍しい茅葺き。江戸時代の享和3年(1803)以前の建造で、墨田区内最古の建築物。区の有形文化財に指定されています。つまり、隅田川七福神が開かれた時にはすでにあったということになります。

多聞寺本堂

多聞寺は、天徳年間(957~61)に開創されたと伝えられます。当時は大鏡山隅田寺と称し、不動明王を本尊としていました。水神社(現在の隅田川神社)の旧別当で、古くはその近くの墨田千軒宿にあったといいます。

天正年間(1573~92)現在地に移転。弘法大師作と伝えられる毘沙門天を本尊とし、隅田山多聞寺と改めました。

多聞寺毘沙門天

厨子の中に御本尊の毘沙門天、その前に大日如来の像が安置されています。

多聞寺の御朱印

多聞寺の御朱印。左下に茅葺きの山門に「隅田川七福神草創二百年」と書かれた印が押されています。

因みに、以前参拝した時は、御朱印対応は七福神の御開帳期間のみとなっていたのですが、その制限はなくなっているようでした。

というような次第で、無事に開祀二百年記念の隅田川七福神巡拝を完了しました。

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