文政8年『神社仏閣順拝帳』
四国88番 医王山 遍照光院 大窪寺
讃岐国寒川郡奥山村(香川県さぬき市多和兼割)
長尾寺から大窪寺まで、現代の「四国の道」は女体山から大窪寺の奥之院に抜けるコースですが、本来の遍路道は西側の集落伝いのコースで、約11kmあるそうです。太郎助の四国三日目の行程は大窪寺までです。
寺伝によれば、元正天皇の御世(714~24)行基菩薩によって開創されたといいます。弘仁7年(816)唐より帰朝した弘法大師が奥之院近くの胎蔵峰で虚空蔵求聞持法を修しました。さらに堂宇を建立して自ら刻んだ等身大の薬師如来像を本尊とし、恵果阿闍梨から授かった三国伝来の錫杖を納めて大窪寺と名付けました。
その後、真済僧正が100町四方を結界とし、高野山金剛峰寺に擬して金剛・胎蔵両界を配置したとされます。高野山が女人禁制であったのに対し、女人の参詣を許したことから「女人高野」と呼ばれ、最盛期には堂宇百余を数えたといいます。しかし天正年間(1573~92)長曽我部の兵火により一院を残して焼失しました。
江戸時代には高松藩松平家の祈願所となり、寛文年間(1661~74)松平頼重が阿弥陀堂・大師堂を建立。元禄年間(1688~1705)には松平頼常が本堂を再建し、七堂伽藍を整えました。太郎助が目にしたのはこの時のものですが、明治33年(1900)火災で焼失しており、現在の伽藍はその後の再建です。
1番霊山寺から回った場合、大窪寺が結願所となりますが、太郎助の場合は善通寺から打ち始めていますので、特に感慨はなかったのではないかと思います。
大窪寺の納経
『順拝帳』を見ると、墨書部分は右から順に
「奉納経」
「本尊薬師如来」
「讃州」「大窪寺」
「三月十二日」
朱印は、中央が宝珠に「奥院 胎蔵峯寺 明伽井」。判読しづらいのですが、天保11年のものと同じようなので、間違いないでしょう。「明伽井」は「閼伽井」のことでしょう。奥之院には弘法大師が独鈷で加持をすると湧き出たという清水があります。中央の朱印が本尊ではなく奥之院に関わるものというのは珍しいと思います。
右上の印は「四国八十八番」、左下の印は九畳篆で、判読できません。
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大窪寺の概要
医王山 遍照光院 大窪寺(おおくぼじ)
現名称:医王山 遍照光院 大窪寺
御本尊:薬師如来
創建年代:養老年間(717~23)
開山:行基菩薩
所在地:讃岐国寒川郡奥山村(香川県さぬき市多和兼割)
宗派等:真言宗大覚寺派
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