西国17番 六波羅蜜寺〈文政8年〉

文政8年『神社仏閣順拝帳』
西国17番 補陀洛山 六波羅蜜寺
山城国 洛東 轆轤町(京都市東山区轆轤町)

六波羅蜜寺の納経

太郎助は西国18番頂法寺(六角堂)、19番行願寺(革堂)を参拝した後、鴨川を渡って西国17番六波羅蜜寺に参拝しています。

六波羅蜜寺を開創した空也上人の出自は不詳ですが、醍醐天皇の皇子あるいは仁明天皇の皇子・常康親王の子とも伝えられます。

尾張国分寺で剃髪、空也の沙弥名を名乗ります。諸国を巡って道を開き、橋を架け、井戸を掘り、荒野に死体があれば火葬に付し、南無阿弥陀仏の名号を唱えて葬ったといいます。

天慶元年(938)京都に入り、庶民に念仏を勧め、浄土信仰を説いたことから市聖(いちのひじり)、阿弥陀聖などと呼ばれました。天暦2年(948)比叡山の天台座主・延昌のもとで得度し、光勝の戒名を授かりますが、その後も沙弥名の空也を用いました。

天暦5年(951)京都に疫病が流行しました。空也上人が自ら刻んだ十一面観音の像を車に安置し、市中を引き廻って悪疫退散を祈願したところ霊験がありました。そこで一宇を建立して観音像を安置し、西光寺と号しました。

上人は紺紙金泥大般若経六百巻の写経を発願。応和3年(963)これを成就し、諸方の名僧600名を請じ、盛大に諸堂の落慶供養を行いました。これが六波羅蜜寺のはじまりと伝えられます。

空也上人が遷化した後、高弟の中信上人が規模を拡大して六波羅蜜寺と寺号を改め、壮麗な天台別院としました。同時は毎日昼に法華講を催し、夜は念仏三昧を修する道場で、多くの参詣者で賑わったという。

平安時代の終わりには寺の周囲に平氏の邸宅が建ち並び、鎌倉時代には六波羅探題が置かれました。兵火で焼失することもたびたびでしたが、源頼朝や足利義詮、豊臣秀吉などにより再興・修復されました。徳川将軍家も朱印地を寄せています。

江戸時代末までは大伽藍を誇りましたが、明治の初めに境内地が半分以下に縮小してしまいました。隣接する旧京都市立六原小学校(平成23年開晴小中学校に統合)の敷地も元は六波羅蜜寺の境内地で方丈や客殿がありました。

現在はやや狭苦しい印象を受ける境内ですが、太郎助が参拝した頃はずいぶん違っていたのでしょう。

現在の本堂は貞治2年(1363)の再建で国の重要文化財。本尊の十一面観世音菩薩は空也上人が天暦5年(951)に造立した像と伝えられ、国宝に指定されています。

他にも空也上人立像や平清盛坐像をはじめ、重要文化財に指定されている平安・鎌倉時代の名品が多数あります。

六波羅蜜寺の納経

六波羅蜜寺の納経

順拝帳を見ると、揮毫は右から順に

「奉納経」
「本尊十一面大士」
「酉六月八日」
「六波羅」「役者」

「大士」は「菩薩」と同じ意味で、「十一面大士」は「十一面観世音菩薩」のことです。

中央の宝印は蓮華座上の宝珠に十一面観音の種字「キャ」。右上の朱印は「西国第十七番」、左下の黒印は判読できません。

新版 古寺巡礼京都〈5〉六波羅蜜寺新版 古寺巡礼京都〈5〉六波羅蜜寺

六波羅蜜寺の概要

補陀洛山 六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)
現名称:補陀洛山 六波羅蜜寺
御本尊:十一面観世音菩薩
創建年代:天暦5年(951)
開基:空也上人
山城国洛東轆轤町(京都市東山区轆轤町)
宗派等:真言宗智山派

文政8年『神社仏閣順拝帳』
行願寺 → 六波羅蜜寺 → 清水寺
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