西国21番 穴太寺〈文政8年〉

文政8年『神社仏閣順拝帳』
西国21番 菩提山 穴太寺
丹波国桑田郡穴太村(京都府亀岡市曽我部町穴太東ノ辻)

穴太寺の納経

嵯峨の清凉寺を参拝した太郎助は、そのまま丹波へ抜けて西国21番穴太寺に参拝しています。

穴太寺は菩提山と号し、「あなおうじ」「あなおじ」「あのうじ」などと読まれます。御本尊は薬師如来で、慶雲3年(706)文武天皇の勅願により、大伴古麻呂が創建したと伝えられます。古麻呂は遣唐副使として唐に渡り、鑑真和上を自分の船に乗せて日本に連れ帰ったことでも知られます。

札所本尊は聖観世音菩薩で、次のような伝承があります。

応和2年(962)曽我部郷に住む宇治宮成という人物が、妻の勧めにより仏を造立することになり、京より仏師の感世を招いた。感世は毎日法華経を読み、中でも普門品(観音経)を必ず日に三十三巻誦経していました。

感世が観音像を完成させると宮成は褒美を与えましたが、惜しくなったために大江山で待ち伏せし、射殺して取り戻しました。

翌朝、寺に参って新しい観音像を拝すると、その胸に昨夜宮成が放った矢が刺さり、血が流れていました。驚いた宮成が仏師感世の様子を調べるために使いを送ったところ、感世はまったく無事で、「丹波から帰る途中で盗賊に遭いましたが、傷一つありませんでした」と言いました。これを聞いた宮成は法華経の威力と観世音菩薩の霊験に感じ、感世にさらに褒美を取らせるとともに、観世音菩薩を深く信仰するようになりました。

この話は今昔物語集や扶桑略記に記されており、平安時代には観音霊場として知られていたことがわかります。しかし残念なことに、この像は昭和43年(1968)盗難に遭い、現在は行方不明となっています。

穴太寺の納経

穴太寺の納経

順拝帳を見ると、揮毫は右から順に

「奉納経」
「本尊聖観世音」
「丹波国」「穴太寺」「役者」

中央の宝印は判読できません。右上は「西国廿一番」、左下は「穴穂」。

轉注説・扶桑略記校偽他 (覆刻日本古典全集)轉注説・扶桑略記校偽他 (覆刻日本古典全集)

穴太寺の概要

菩提山 穴太寺(あなおじ)
現名称:菩提山 穴太寺
異称:穴生寺 穴穂寺
御本尊:薬師如来
札所本尊:聖観世音菩薩
創建年代:慶雲2年(705)
開基:大伴古麻呂
丹波国桑田郡穴太村(京都府亀岡市曽我部町穴太東ノ辻)
宗派等:天台宗

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