四国48番 西林寺〈文政8年〉

四国48番西林寺の納経

文政8年『神社仏閣順拝帳』
四国48番 清瀧山 安養院 西林寺
伊豫国久米郡高井村(愛媛県松山市高井町)

四国48番西林寺の納経

西林寺の門前には川が流れ、橋を渡って土手を下りたところに山門があります。道路より境内が低いことから、罪ある人が門をくぐると無間地獄に堕ちるという言い伝えがあります。

寺伝によれば、天平13年(741)行基菩薩が聖武天皇の勅願により創建しました。当時の所在地は東方約3kmの小野播磨塚の辺りの「徳威の里」で、越智玉純とともに一宮別当として堂宇を建立したとされます。

大同2年(807)弘法大師が当寺に留錫した際に現在地に移転。また、この時、日照りに苦しむ里人のため、杖を突いて清水を湧き出させたのが当寺の奥の院で名水百選にも指定されている杖の渕と伝えられます。

寛永年間(1624~44)火災で焼失しましたが、元禄13年(1700)松山藩主・松平定英により本堂が再建されました。宝永4年(1707)には住職の覚栄法印による祈雨の霊験によって松山藩の帰依を受け、本堂の補修や鐘楼の再建が行われました。

さらに文化10年(1813)には大師堂、天保15年(1844)には仁王門が再建されています。太郎助の参拝は文政8年(1825)ですので、仁王門以外は再建が完了していたということのようです。

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西林寺の納経

四国48番西林寺の納経

『順拝帳』を見ると、墨書部分は版木押しで、右から順に

「奉納経 四十八番」
「十一面観音大士」
「清瀧山 西林寺」

上の朱印は本尊・十一面観音の種字「キャ」で、両脇に脇侍の種字を配しているようです。脇侍の種字はにじんで判読できませんが、左が不動明王の種字「カーン」、右が毘沙門天の種字「ベイ」ではないかと思われます。

下の印も判読しづらいのですが、「安養」ではないかと思われます。

なお、現在の西林寺の印には十一面観音の種字「キャ」ではなく、阿弥陀如来の種字「キリーク」が用いられています。

この順拝帳から、文政8年の時点では「キャ」が用いられていたことがわかりますが、天保時代には「キリーク」が使われていたようです。理由はよくわかりませんが、御詠歌に「弥陀仏の世界をたずね行きたくば 西の林の寺に詣れよ」とあるのに関係するのかもしれません。

四国遍路とはなにか (角川選書)四国遍路とはなにか (角川選書)

西林寺の概要

清瀧山 安養院 西林寺(さいりんじ)
現名称:清瀧山 安養院 西林寺
御本尊:十一面観世音菩薩
創建年代:天平13年(741)
開山:行基菩薩
所在地:伊豫国久米郡高井村(愛媛県松山市高井町)
宗派等:真言宗豊山派

文政8年『神社仏閣順拝帳』
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