文政8年『神社仏閣順拝帳』
四国86番 補陀落山 清浄光院 志度寺
讃岐国寒川郡志度村(香川県さぬき市志度)
志度寺は謡曲「海士」などで知られる「玉取伝説」ゆかりの寺です。東讃を代表する名刹で、『梁塵秘抄』や『吾妻鏡』にも「志度道場」として、その名が見えます。
寺伝によれば、推古天皇33年(625)凡薗子(おおしのそのこ)尼が志度浦に流れ着いた霊木で十一面観世音菩薩像を彫り、1間四面の堂宇を建立して祀ったことに始まるとされます。
藤原不比等は、唐より贈られた宝珠「面向不背の珠」が志度の沖で龍神に奪われました。これを取り戻すために志度浦に赴き、一人の海女と契りを交わし、一子を儲けます。これが後の藤原房前です。
不比等から事情を聴いた海女は、わが子の栄達と引き替えに龍宮へ向かい、宝珠を取り戻して息を引き取りました。不比等は薗子尼が建立した堂の境内に海女の墓を建て、伽藍を建立して「死度道場」と名付けました。
後に成人した藤原房前は持統天皇7年(693)行基菩薩を伴って志度浦を訪れ、伽藍を拡張するとともに、母の供養のために千基の石塔を建立したと伝えられます。その一部とされる石塔約20基が今も残り、海女の墓とされています。
現在は善通寺派ですが、志度寺の奥之院・地蔵寺のご住職から伺ったところによると、善通寺が善通寺派の大本山になった際、香川県内の多くの寺院が善通寺派に転派し、地蔵寺もその時に善通寺派になったということでした。志度寺が善通寺派になったのも、この時ではないかと思います。それ以前は御室派だったようです。
志度寺の納経
『順拝帳』を見ると、墨書部分は版木押しで、右から順に 「四国第八十六霊刹」
「本尊十一面観世音
「讃州補陀落山 志度寺」
「酉三月十二日」
中央上の朱印は「補陀落山」、左下は「執事」。朱印・版木ともに天保11年(1840)のものと同じです。
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志度寺の概要
補陀落山 清浄光院 志度寺(しどじ)
現名称:補陀落山 清浄光院 志度寺
御本尊:十一面観世音菩薩
創建年代:推古天皇33年(625)
開基:藤原不比等
所在地:讃岐国寒川郡志度村(香川県さぬき市志度)
宗派等:真言宗善通寺派(元は御室派であった)
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