文政8年『神社仏閣順拝帳』
四国12番 摩廬山 正寿院 焼山寺
阿波国名西郡左右内村(徳島県名西郡神山町下分)
12番焼山寺は焼山寺山の8合目にあり、11番藤井寺からの道のりは「遍路ころがし」と呼ばれる阿波国第一の難所です。太郎助の四国第6日目、文政8年3月15日は1825年5月2日、ちょうど190年前の今日です。
寺伝によれば、大宝年間(701~04)修験道の開祖とされる神変大菩薩・役小角が山を開き、蔵王権現を祀ったことに始まるといいます。
この山には大蛇が住んでいて、火を吐いて人や農作物を害していました。弘仁6年(815)頃、当地を訪れた弘法大師はこれを聞き、大蛇を退治するために山へ登って行きました。大蛇はこれを阻止するために火を吐き、全山炎に包まれましたが、大師は怯むことなく「摩廬(水輪)」の印を結び、真言を唱えながら進みました。
山頂付近で大蛇と対峙した大師は、虚空蔵菩薩の加護を得て大蛇を岩窟に封じ込めました。岩の上に三面大黒天を安置して里人の大衆安楽と五穀豊穣を祈るとともに、自ら刻んだ虚空蔵菩薩を本尊として一寺を建立した。「摩廬山 焼山寺」の寺号山号はこの故事にちなむとされます。
『義経記』には、比叡山を下りた武蔵坊弁慶が明石から阿波の国に渡り、「焼山つるが峯」を参拝したとあります(「弁慶山門を出ずること」)。南北朝時代には後醍醐天皇の勅願所となり、また足利尊氏も祈願所にしたと伝えられています。
境内には徳島県の天然記念物に指定されている樹齢数百年の杉の巨木が立ち並んでいます。今から190年前、太郎助も今よりも若かったこれらの杉を見たことでしょう。
焼山寺の納経
『順拝帳』を見ると、右から順に
「奉納」
「本尊虚空蔵大士宝前」
「阿州 焼山寺」
「酉三月十五日」
中央上の朱印は十六八重菊の御紋、勅願所であることを示すものと思います。その右は「四国霊場十二番」、左下は「虚空蔵院」。いずれも天保10年の納経帳に押されている印と同じようです。
焼山寺の院号は正寿院(『四国徧礼霊場記』では「性寿院」)ですが、現在の納経印も左下の印は「虚空蔵院」になっています。かつての院号なのか、別号なのか、そのあたりはよくわかりません。
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焼山寺の概要
摩廬山 正寿院 焼山寺(しょうざんじ)
現名称:摩廬山 正寿院 焼山寺
御本尊:虚空蔵菩薩
創建年代:弘仁6年(815)
開山:役行者小角
所在地:阿波国名西郡左右内村(徳島県名西郡神山町下分)
宗派等:高野山真言宗
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