四国番外 恵信庵〈文政8年〉

文政8年『神社仏閣順拝帳』
四国番外 恵信庵
阿波国名西郡左右内村(徳島県名西郡神山町下分)

四国番外恵信庵の納経

聞いたことのない名前ですが、「衛門三郎廟所」「杖杦(杉)古跡」とあるので、現在の杖杉庵と考えて間違いないでしょう。かつて杖杉庵を恵信庵と呼んでいたというようなことは、この『順拝帳』を見るまで聞いたこともありませんでした。

衛門三郎は四国遍路の元祖とされます。伝承によれば、伊予国浮穴郡荏原の里の長者で、強欲非道な人物だったとされます。

ある時、一人の修行僧が托鉢に訪れたのですが、衛門三郎は邪険に追い返しました。その修行僧は翌日も翌々日も托鉢に訪れ、7日間に及びましたが、何一つ施すことなく追い返しました。そして8日目、托鉢に立った修行僧に、怒った衛門三郎が竹箒で修行僧に打ち掛ったところ、捧げ持った鉄鉢に当たり、8つに割れて飛び散ったのです。

すると不思議なことに、その翌日から衛門三郎の8人の子供たちが次々に高熱を発して病となり、8日間のうちに8人とも亡くなってしまいました。

旅の修行僧が弘法大師であったことを悟った衛門三郎は、前非を悔い、大師を追って四国霊場を巡る旅へと出発しました。しかし、いくらまわっても会うことができず、順逆合わせて21回目、ついに焼山寺の麓のこの地で力尽きました。

すると、大師が目の前に現れて、今生における悪業の果報が尽きたので、来世の望みを言うようにと語りかけました。三郎が来世は国守に生まれ、善政を施したいと願うと、大師は小石に「衛門三郎再生」と書き、三郎の左手に握らせました。

杖杉庵の納経印

杖杉庵の納経印(平成元年)

大師が三郎の亡骸を埋め、墓標の代わりに杉の杖を立てたところ、杖が根付いて大杉になったとされます。

元禄2年(1689)の『四国徧礼霊場記』には、「右衛門三郎ここにて死し。墓しるしの杉あり」とのみあるので、庵ができたのはその後のことでしょう。

恵信庵の納経

四国番外 恵信庵の納経

『順拝帳』を見ると、墨書は右から順に

「奉納経」
「衛門三郎廟所」
「杖杦古跡」(杦=杉)
「阿州恵信庵」

中央上の朱印は十六八重菊の御紋、右上は「四国順拝元祖」、左下は「虚空蔵院」。

焼山寺が管理していたと思われるので、菊の御紋と「虚空蔵院」の印も焼山寺のものでしょう。

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恵信庵の概要

恵信庵(えしんあん?)
現名称:杖杉庵
御本尊:地蔵菩薩
創建年代:不詳
所在地:阿波国名西郡左右内村(徳島県名西郡神山町下分)
宗派等:高野山真言宗

文政8年『神社仏閣順拝帳』
焼山寺 → 恵信庵 → 一宮大明神
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