文政8年『神社仏閣順拝帳』
四国62番 一宮大明神・天養山 観音院 宝寿寺
伊豫国周敷郡新屋敷村(愛媛県西条市小松町新屋敷甲)
江戸時代までの四国62番札所は一宮大明神(現・一之宮神社)で、別当の宝寿寺が納経を司っていました。真念法師の『四国辺路道指南』には「一之宮」とあります。
一之宮神社の社伝・宝寿寺の寺伝によれば、天平宝字年間(757~65)大国主命の神託を受けた聖武天皇の勅願により一国一宮として創建されました。また、聖武天皇は道慈律師に勅し、法楽所として金剛宝寺を建立しました。
当時の所在地は今より500mほど北方、中山川北岸の白坪の地であったとされます。
大同年間(806~10)弘法大師が巡錫し、光明皇后(聖武天皇の皇后)の姿を象って十一面観音の像を刻み、本尊として安置しました。また、難産で苦しむ国司・越智氏の夫人のため、境内の玉の井の水で加持したところ、無事に男子を出産しました。これに因んで寺号を宝寿寺と改め、安産の観音として信仰を集めるようになりました。
その後、中山川の氾濫で境内は荒廃。天養2年(1585)伽藍が再興され、山号を天養山と改めました。
天正13年(1585)には豊臣秀吉の四国征伐の兵火で焼失し、宝寿寺は寛永13年(1536)新屋敷(伊予小松駅の北側、現・一之宮神社境内)に移転再興されました。そのため、巡拝者は白坪の一宮に札を納めた後、新屋敷の宝寿寺で納経を行い、香園寺、横峰寺と巡拝していました。承応2年(1653)に四国を巡拝した澄禅大徳もこの順番で巡っています。
万治年間(1658~61)中山川の洪水の被害を避けるため、一宮大明神の社を宝寿寺境内の現社地に遷座しました。これに伴い、それまで一宮(宝寿寺)-香園寺-横峰寺という巡拝ルートが横峰寺-香園寺-一宮(宝寿寺)に変わったことが『四国辺路道指南』に記されています。
明治維新の神仏分離で一宮と宝寿寺は分離。宝寿寺は廃寺とされて香園寺に合併されましたが、明治10年(1877)再興されました。さらに大正12年(1923)鉄道が宝寿寺境内を通ることとなり、伊予小松駅南側の現在地に移転しています。
さて、「一国一宮」「伊豫国一宮」を称する一之宮神社・宝寿寺はなかなか謎の多い札所でもあります。
言うまでもなく伊豫国一宮は大三島の大山祇神社で、異説はありません。四国八十八ヶ所には各国の一宮が含まれていましたが、伊豫国の場合、別宮大山祇神社・南光坊が前札所から事実上の札所になっていったことはすでに触れたとおりです。
その国の一宮の御分霊を勧請して「一宮」と称する例は伊豫国に限らず見られます。四国霊場の巡行記としては現存最古と考えられている『空性法親王四国霊場御巡行記』には、大山祇神社から伊豫国内各地に勧請されたと思われる数多くの「一之宮」が登場します。
それを考えれば、こちらの一宮大明神も大山祇神社の分社の一つと考えるのが妥当で、寂本の『四国徧礼霊場記』も「一ノ宮(大山祇神社)の余烈にや」としています。また、御朱印をいただいた時に宮司さんに尋ねたところ、やはり遥拝所だったと考えておられるようでした。
ただ、そうなると御祭神と神紋が問題で、大山祇神社の分社であれば御祭神は大山積命で神紋は折敷に三文字となるはずですが、一之宮神社の主祭神は大国主命で相殿に大山積神、神紋は出雲系に多い亀甲です。『空性法親王四国御巡行記』には「大国主ノ一ノ宮」とあり、単純に大山祇神社の分社とは考えづらいところです。
しかも、同じ新屋敷村には井出郷総鎮守・三島新宮を称する三嶋神社があります。こちらは明確に大山祇神社から勧請した由緒を有し、三島系の神紋も折敷に縮み三文字です。
考えるほどに謎の多い札所です。そして、今はある意味でとても話題の札所に。
一宮大明神・宝寿寺の納経
『順拝帳』を見ると、墨書部分は版木押しで、右から順に
「六十二番霊刹」
「伊豫国一宮大明神」
「別当宝寿寺」
中央に宝印はありません。左下の黒印は四隅に「古義密宗」中央に「宝寿寺」のようです。
一宮大明神・宝寿寺の概要
一宮大明神(いちのみやだいみょうじん)
現名称:一之宮神社
御祭神:大国主命/配祀:事代主命、大山積尊
創建年代:天平宝字年間(757~65)
鎮座地:伊豫国周敷郡新屋敷村(愛媛県西条市小松町新屋敷甲)
社格等:旧村社
天養山 観音院 宝寿寺(ほうじゅじ)
現名称:天養山 観音院 宝寿寺
御本尊:十一面観世音菩薩
創建年代:天平年間(729~49)
開基:聖武天皇
所在地:伊豫国周敷郡新屋敷村(愛媛県西条市小松町新屋敷甲)
宗派等:高野山真言宗
コメント