福山八幡宮 戦前と現在の御朱印

広島県福山市北吉津町1-2-16(Mapiongooglemap

福山八幡宮中央拝殿

福山八幡宮合祭殿(中央拝殿)

戦前の御朱印との比較が興味深い福山市内3つの別表神社、最後は備後福山の総鎮守・福山八幡宮です。現在の御朱印はごく一般的な感じですが、戦前の御朱印については3社の中でもっとも興味深いのではないかと思います。

福山八幡宮は、福山城を南正面に望む小高い丘の上に、同一形式・同一規模の社殿が東西に並ぶという、非常に珍しい形式の神社です。社殿のみならず、神橋から惣門、参道、鳥居、石段、随神門とすべてが同じになっています。両社殿の間には正和59年(1989)に造営された合祭殿(中央拝殿)があります。

元は延広八幡宮と野上八幡宮という別の神社でした(戦前は延広八幡神社・野上八幡神社)。天和3年(1683)福山藩第4代藩主・水野勝種が両社を現社地に遷し、現在のような形になりました。以来、両社八幡宮と呼ばれるようになり、東側の延広八幡宮を東宮(東御宮)、西側の野上八幡宮を西宮(西御宮)と称しました。

延広八幡宮は福山城下の町人の産土神、野上八幡宮は藩士の産土神で、福山の総鎮守として歴代藩主が篤く崇敬しました。戦前は両社とも県社に列していました。戦後はそれぞれ別の宗教法人として登記されていましたが、昭和44年(1969)両社の法人格を合併、福山八幡宮と改称して神社本庁の別表神社に加列しました。

かつて二つの独立した神社であったものが、現在は合併して一つの神社になっているという意味では備後護国神社と同じです。しかし、備後護国神社となった福山護国神社と阿部神社がまったく別の神社であったのに対し、延広八幡と野上八幡は両社八幡と呼ばれ、独立しているとはいえ二社で一体の存在でもありましたから、御朱印はどうだったのだろうかと興味があったわけです。

福山八幡宮惣門・鳥居・随神門

野上八幡宮(左)と延広八幡宮(右)の惣門(薬医門)、鳥居、随神門。

野上八幡宮社殿

西宮・野上八幡宮の社殿。本殿は平成20年(2008)の改修により、極彩色の創建当時の姿に復元されています。

延広八幡宮社殿

東宮・延広八幡宮の社殿。

福山八幡宮東西宮拝殿・本殿

野上八幡宮(左)と延広八幡宮(右)の拝殿、本殿。

福山八幡宮、聡敏神社

境内社・聡敏神社。水野家初代藩主・水野勝成を祀ります。水野勝成は徳川家康の従兄弟で、たびたび武勲を上げ、また藩主としては福山城の築城や城下の整備、領内の産業育成に多大な功績を上げました。享保5年(1715)福山城内から東宮と西宮の間に遷されましたが、昭和59年の合祭殿建設に際して西宮裏の現在地に遷座しました。

福山八幡宮境内社

境内社。

福山八幡宮合祭殿

合祭殿、背後より。

福山八幡宮の御朱印

備後護国神社の御朱印は、元となった二社に由来する二つの印が押されていましたが、福山八幡宮の御朱印は他と比べて特別なところはない、ごく一般的な感じのものです。

福山八幡宮の御朱印

福島八幡宮の御朱印。下の印は「福山八幡宮」、上は三つ巴と丸に抱沢瀉の紋。丸に抱沢瀉は水野家の家紋です。数年前までは三つ巴だけで、近年、抱沢瀉紋が加えられたようです。

そして戦前の御朱印。

野上八幡神社の御朱印

西宮・野上八幡神社の御朱印。昭和11年頃。中央の朱印は大篆(柳葉篆)で「両社西宮」。上に三つ巴の神紋、右上は「備後国福山松廼尾山鎮座」、左下は「縣社野上八幡神社社務所印」。

延広八幡神社の御朱印

東宮・延広八幡神社の御朱印。昭和12年頃。中央の朱印は同じく大篆(柳葉篆)で「両社東宮」。西宮とほぼ同様の印でありながら文字の配置に違いがあります。下は「縣社延廣八幡神社社務所印」。

どちらも同じ集印帖にあるのですが、拝受した時期は違っているようです。そのため、両社の印の違いがもともと違っていたものなのか、印が新調されるなどの事情があったことによるのかはわかりません。ただ、西宮のほうが押されている印が多いことから考えて、当時は互いに完全に独立した神社で、ある程度共通性・一体性は持たせていたにせよ、完全に一致させるつもりはなく、相互の独自性も保っていたのだろうと思われます。

なお、明治以降の神社が国家管理の下にあった時代、八幡宮や天満宮はごく一部を除いて宮号を使うことができませんでした。そのため、当社の場合も野上八幡神社・延広八幡神社となるわけです。

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福山八幡宮の概要

福山八幡宮(ふくやまはちまんぐう)
正式名称:福山八幡宮
旧称:野上八幡宮・延広八幡宮
御祭神:応神天皇、比売大神、神功皇后
創建年代:不詳、昭和44年(1969)合併
鎮座地:広島県福山市北吉津町1-2-16
社格等:旧県社、別表神社
http://www.fukuyamahachimangu.or.jp/

【由緒】
備後福山の総鎮守。福山城の北、松廼尾山(まつのおやま)に並んで鎮座し、両社八幡宮と称されていた延広八幡宮と野上八幡宮の法人格を昭和44年(1969)に合併し、新たに発足しました。

両社の創建については不詳ですが、古くより常興寺山(現在の福山城)に鎮座しており、天文年間(1532~55)神辺城主の杉原盛重が社殿を造営したと伝えられます。

東側に鎮座して東宮(東御宮)と称される延広八幡宮は、福山城の築城に際して、神島町下市(現在の延広町)に祀られ、福山城下の町人の産土神とされました。寛永18年(1641)上島町の大火で焼失し、新町(現在の住吉町)に遷座しました。

元は惣堂八幡と称しましたが、寛文2年(1662)の水野家家中騒動の後、惣堂は騒動に通じるとして延広八幡宮と改称されました。

西側に鎮座して西宮(西御宮)と称される野上八幡宮は若宮八幡宮とも称し、福山城の築城に伴なって野上に遷座、福山藩士と野上・多治米両村の氏神とされました。

天和3年(1683)福山藩主・水野勝種は両社を松廼尾山の現社地に遷し、東西に並べて社殿を建立しました。両社は惣門から参道、鳥居、石段、随神門、社殿まで同規模・同形式で造営されています。享保5年(1716)には水野家初代藩主・水野勝成を祀る聡敏神社が福山城内より遷されました。

以来、福山の総鎮守として水野氏の後に福山藩主となった松平氏・阿部氏からも深く崇敬されました。

昭和3年(1928)11月、両社ともに県社に昇格。同44年(1969)両社の法人格を合併して福山八幡宮と改称、神社本庁の別表神社に加列しました。同59年(1984)には御鎮座300年の記念事業として両社の間にあった聡敏神社を西御宮裏側に遷し、壮大な中央拝殿(合祭殿)を造営しました。

戦前と現在の御朱印(福山市の別表神社)
沼名前神社備後護国神社・福山八幡宮

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