自玉手祭来酒解神社(たまでよりまつりきたるさかとけじんじゃ)
正式名称:自玉手祭来酒解神社
通称:酒解神社
旧称:天王社(天神八王子社・山崎天王社・山崎八王子社・牛頭天王社・八王子天王社等)
御祭神:大山祇神(酒解神)/相殿:素盞嗚尊
創建年代:不詳
例祭:9月15日
社格等:式内社・旧郷社
鎮座地:京都府乙訓郡大山崎町大山崎天王山46番地[Mapion | googlemap]
JR京都線「山崎駅」もしくは阪急京都線「大山崎駅」から徒歩45分。本数も多く、大阪・京都どちらからでも便利です。大きな駐車場がないため、自動車を使うより公共交通機関を使った方がよいでしょう。
自玉手祭来酒解神社の御由緒
自玉手祭来酒解神社、通称・酒解神社は「天下分目の天王山」として名高い京都府大山崎町の天王山に鎮座する。江戸時代までは天王社と称して牛頭天王(現在は素盞嗚尊)を祀り、これが天王山の名の由来となっている。
創建年代は不詳だが、養老元年(717)建立の棟札が伝わっていたという。承和6年(839)従五位下を奉授され、同10年(843)名神に預かり、嘉祥元年(848)には勅により御戸代田2町を充てられた。延喜の制では名神大社に列し、月次・新嘗の官幣に預かる。
元は「山埼(山崎)社」とも称し、現在の離宮八幡宮の地に祀られていたと伝えられる。社号は玉手の地から山崎の地に遷し祀られた酒解神の社の意と考えられるが、玉手がどこであるかについては不明である。酒解神は橘氏の祖神とされる梅宮大社にも祀られている。
旧社地に離宮八幡宮が奉斎され、次第に勢威が強くなったため、天王山上に遷座したとされる。しかし中世以降は社名が失われ、天王社と称して牛頭天王と八王子を祀るようになった。『都名所図会』には、「大山崎天王の社は、素盞嗚の御子八王子を鎮座し給ふなり。鳥居の額は小野道風の筆なり。山崎郷中の産沙(うぶすな)とす」とある。
文化10年(1813)火災のため神輿庫を残して焼失、文政3年(1820)再建されたのが現在の社殿である。
明治元年(1868)天神八王子の名を廃し、酒解神社と改称。同6年(1873)村社に列格。同10年(1877)京都府により式内社・自玉手祭来酒解神社であると決し、同16年(1883)郷社に昇格した。
なお離宮八幡宮の鎮座記には、貞観2年(860)の鎮座の際、酒解神を相殿としたと記されており、現在も左殿に祀られている。
自玉手祭来酒解神社の御朱印
御朱印は本務社の離宮八幡宮でいただける。
上の朱印は宝珠の神紋、下の印は「自玉手祭来酒解神社」。
自玉手祭来酒解神社の参拝記
京都府と大阪府の境近くにそびえる天王山。本能寺の変の後、明智光秀と豊臣秀吉の山崎の合戦が行われたことから「天下分目の天王山」として知られます。自玉手祭来酒解神社、通称・酒解神社はその山頂近くに鎮座しています。
参拝は平成29年12月の朝、汗をかかない季節を選んで参拝しました。前日の東京はけっこうな雨だったのですが、京都はきれいに晴れていました。
天王山へはJR京都線の山崎駅か阪急電鉄京都線の大山崎駅が最寄り駅となります。今回はJR山崎駅から出発しました。
駅から東へ100mほど進み、踏切を渡ると天王山への登山口があります。山崎聖天観音寺経由で登る場合にはこの交差点を右に進みます。
けっこう急な車道を上っていくと右手に宝寺の通称で知られる天王山宝積寺(真言宗智山派)の山門があります。
車道はここまでで、その先に道がないのでちょっと迷ったのですが、天王山へは山門をくぐり、宝積寺の本堂に向かっていくことになります。
重要文化財の三重塔を右手に見ながら参道を進むと、正面に宝積寺の本堂が見えてきます。まだ時間が早かったので、扉は閉ざされたままでした。
本堂の左には大黒堂、右には閻魔堂が建っています。秀吉の出世石や宵待ちの鐘など見どころの多い境内ですが、まずは山頂への道を急ぐことにします。
天王山へは本堂前を右折し、閻魔堂と弁天堂の間を抜けていきます。
登山道はハイキングコースとして整備されています。10分ほど登ると青木葉谷展望台があり、山崎の合戦の説明なども設置されているのですが、写真を撮り忘れました。
山崎聖天からの登山道と合流し、さらに登っていくと酒解神社の鳥居が見えてきます。その手前には旗立松展望台が設けられており、正面に石清水八幡宮の鎮座する男山を望みます。ここまで来ると、酒解神社まではもう一息です。
鳥居前の旗立松。山崎の合戦の際、光秀軍と衝突した秀吉は、天王山に駆け上り、味方の士気を高めるため老松に旗を掲げました。これによって秀吉軍の意気は上がり、大いに光秀軍を打ち破ったと伝えられます。現在の松は五代目だそうです。
旗立松のそばに建てられた山崎合戦之地碑。
鳥居をくぐって少し進むと、天王山十七烈士の墓があります。元治元年(1864)禁門の変の後、天王山に立て籠もり、会津藩や新選組1,500人の攻撃を受けて自害した真木和泉ら17名の墓所です。真木和泉は久留米水天宮の祠官・久留米藩士で、水戸に遊学して会沢正志斎に師事、尊王攘夷を主張して幕末の志士に大きな影響を与えました。
はじめ墓所は宝積寺境内に設けられましたが、参拝者が多かったために幕府方が竹藪の中に移し、明治元年(1868)現在の地に移されたそうです。
更に進むと厳島社、三社宮があります。
厳島社、御祭神は市杵島姫命。
三社宮。右から天照大神、月読大神、蛭子神を祀っています。天王社の御祭神・素盞嗚尊の姉・兄神ということでしょう。
いよいよ社殿が見えてきましたが、道は拝殿正面ではなく、拝殿と本殿の間、幣殿もしくは釣殿を横切るような形で続いています。
社号標、「式内郷社自玉手祭来酒解神社」とあります。その横の石の円柱は鳥居の跡でしょうか。
その左手、一段高くなったところに重要文化財の神輿庫があります。鎌倉時代に建立された板倉造りで、この形式の建築としては我が国最古のものだそうです。
本殿は文政3年(1820)の再建で国の登録文化財。五間社流造社殿で、屋根は銅板仮葺。欄間や蟇股に豪壮な彫刻を施しています。よくこんな山の高いところに造ったものだと思わされる大型の社殿です。
道の左側には拝殿が建っていますが、かなり傷んでいるようです。
拝殿の内部。もともと割拝殿で、本来の参道はこちらに通じていたのではないかと思いますが、奥からのぞき込んでも道らしきものは見当たりませんでした。
拝殿から本殿を見る。『明治神社誌料』に「社殿は、本殿、拝殿、釣殿、神輿庫、神供所、神祭献楽所等ありて(以下略)」とあるので、この部分が釣殿と幣殿に当たるのだろうと思います。手前は登山道になっています。
本殿に向かって左側にある宮主社、御祭神は足名稚命・手名稚命。
本殿に向かって右側にある後見社、御祭神は大己貴命。本殿と後見社の間を山頂への道が通っています。
せっかくなので山頂を目指します。
山頂へと続く道。
天王山の山頂。山崎の合戦の後、豊臣秀吉が築いた山崎城の跡が残っています。
天王山山頂の標識。標高270.4メートルとあります。
山を下り、宝積寺に到着したのが9時を少し過ぎたところ。登るときには閉まっていた本堂の扉が開いていました。
授与所も開いていたので御朱印を拝受。御本尊の他、大黒天と閻魔王の御朱印もいただけました。
宝積寺で天王山登頂証明書もいただきました。明智の桔梗紋と秀吉の千成瓢箪が入っています。
登頂証明書は宝積寺のほか、JR山崎駅前の西田本店と阪急西山天王山駅前の長岡京@navi.でも販売しているようですが、宝積寺でいただいた場合には裏に大黒天の御朱印を押していただけます。
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[…] 酒解大神は、山崎の氏神である自玉手祭来酒解神社の御祭神。酒解神は橘氏の氏神である梅宮大社にも祀られており、大山祇神とされる。 […]