文政8年『神社仏閣順拝帳』
西国16番 音羽山 清水寺
山城国 洛東 清水門前
六波羅蜜寺を参拝した太郎助は、そのまま続けて清水寺に参拝しています。六波羅蜜寺から清水寺の仁王門までは徒歩10分あまりの距離です。
「清水の舞台」や「音羽の滝」で名高い清水寺は、平安遷都以前に遡る歴史を有し、古くから観音霊場として広く信仰を集めてきました。現在でも京都を代表する観光地の一つであり、世界文化遺産にも登録されています。
寺伝によれば、宝亀9年(778)子島寺(南観音寺)の延鎮上人は夢告に従って北に向かい、淀川で一筋の金色の水を見つけました。その源を辿って山城国愛宕郡八坂郷の音羽山に分け入ると、清らかな湧水が流れ落ちる滝があり、そのほとりの草庵で修行する老仙人・行叡居士と出会いました。
行叡は延鎮に「我、観音の威神力を念じ、千手真言を唱えながら汝を長く待っていた。ここは観音の霊場であり、またこの柳は七仏出世の昔より繁茂する楊柳である。汝、この木で千手観音を刻み、堂舎を建立せよ。汝にこの庵を与え、我これより東国を済度せん」と告げ、姿を消しました。延鎮は暫く待ちましたが居士は戻らず、その姿を尋ね歩くと山科の東峰に履き物が落ちていました。
延鎮は行叡居士が観音の示現であったことを悟り、音羽山の草庵に入って練行しつつ観音の霊地を守りました。
それから2年を経た宝亀11年(780)坂上田村麻呂が鹿狩りのために音羽山に入り、延鎮の草庵にたどり着きました。田村麻呂は妻の病気の薬になるという鹿の生き血を求めていたのですが、延鎮より殺生を戒められ、感銘を受けて深く帰依しました。そして延鎮に協力して寺院を建立したのが清水寺の始まりとされます。
延暦14年(795)東国平定を命じられた田村麻呂は、延鎮に朝家安泰と自身の息災の祈祷を依頼し、霊験を得て無事に凱旋しました。田村麻呂はこれを仏徳によるものとして延鎮を内供奉十禅寺に推薦。延暦17年(798)仏殿を荘厳端麗に改築し、東征に際して神変を顕した地蔵・毘沙門の二像を脇侍として祀ったと伝えられます。
以来、名高い観音霊場として朝廷から庶民に至るまで広く信仰を集めます。また、南都・興福寺に属し、延暦寺に属した祇園感神院(八坂神社)とは南都北嶺の最前線として争い、焼き討ちに遭うこともたびたびでしたが、その都度再建されました。
本堂は「清水の舞台」として知られる舞台造(懸造)で、現在のものは寛永10年(1633)徳川家光の寄進により再建されました。国宝。太郎助も同じ景色を見たことでしょう。
清水寺の納経
順拝帳を見ると、揮毫は右から順に
「奉納経」
「本尊大慈悲閣」
「酉六月八日」
「清水寺」「役者」
中央の宝印は蓮華座上の火焔宝珠に千手観音の種字「キリーク」。右上に「西国十六番」の黒印、左下の黒印は判読できません。
清水寺の概要
音羽山 清水寺(きよみずでら)
現名称:音羽山 清水寺
御本尊:千手観世音菩薩
創建年代:宝亀9年(778)
開基:延鎮上人
山城国洛東清水門前(京都市東山区清水)
宗派等:北法相宗 大本山
文政8年『神社仏閣順拝帳』
六波羅蜜寺 → 清水寺 → 今熊野観音寺
※参拝寺社一覧
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