文政8年『神社仏閣順拝帳』
四国79番 金華山 摩尼珠院(まにしゅいん)
79番札所は、四国霊場88ヶ所の中でも指折りの複雑な歴史があります。現在の79番札所は高照院天皇寺ですが、江戸時代以前は金華山摩尼珠院妙成就寺、通称金華山天皇寺で、崇徳天皇社(現在の白峰宮)と一体の別当寺でした。真念の『四国辺路道指南』では「崇徳天皇」とあり、寂本の『四国徧礼霊場記』では「金花山摩尼珠院妙成就寺」、ただし挿絵には「崇徳天皇図」とあります。
霊場としての淵源は、白峰宮・高照院天皇寺の西50mほどのところにある八十場の泉にあります。日本武尊の子・讃留霊王が悪魚の毒から蘇生したという伝承がある霊泉です。
寺伝によれば、弘法大師が四国を巡錫した折、この八十場の泉で感応を受け、十一面観音と阿弥陀如来・不動明王を刻んで妙成就寺を創建したとされます。また、石の薬師如来を刻んで金山の水源に祀りました。これが金山の薬師(奥之院・瑠璃光寺)で、澄禅の『四国辺路日記』には、本当はこちらが弘法大師の定めた札所であると記されています。
保元の乱に敗れて讃岐に流された崇徳上皇が崩御すると、都からの指示を待つ間、御尊体を八十場の霊泉に浸して保存しました。その間、付近の霊木に不思議な光が輝いたので、二条天皇の宣旨により崇徳天皇を祀る廟が建立され、摩尼珠院を別当としました。
以後、崇徳天皇社は高倉天皇・土御門天皇・御嵯峨天皇をはじめとする朝廷・武門より篤い崇敬を受けました。社殿の造営や社領の寄進がたびたびありました。摩尼珠院は天皇ゆかりの寺院ということから「天皇寺」と通称されるようになります。澄禅は、中古以来、崇徳天皇社が繁栄し、大きな伽藍を誇っていたことから、事情を知らない巡礼者が崇徳天皇社を札所だと思うようになり、それが定着したのだと述べています。
摩尼珠院の納経
『巡拝帳』を見ると、墨書部分は版木押しで、右から順に
「奉納経」
「本尊十一面観音」
「崇徳院御鎮座所」
「讃州 摩尼珠院」
「酉三月十日」
朱印は中央上に十六八重菊の御紋、勅願所であることを示していると思います。右上には「四国七十九番」、左下には「摩尼珠院」。
明治の神仏分離により摩尼珠院は廃寺となり、崇徳天皇社は白峰宮となります。79番札所は摩尼珠院の筆頭末寺であった奇香山高照院が引き継ぎました。明治20年(1887年)には摩尼珠院跡の現在地に移転、金華山天皇寺の法灯を復興しました。ただし、登記上の正式名称は高照院であるため、標識などには「高照院天皇寺」を用いているそうです。
摩尼珠印の概要
現名称:白峰宮・高照院天皇寺(摩尼珠院…廃寺)
御本尊:十一面観世音菩薩・崇徳院
創建年代:弘仁年間(810~24)
所在地:讃岐国阿野郡西庄村(香川県坂出市西庄町)
宗派等:(高照院天皇寺/真言宗御室派)
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