四国76番 金倉寺〈文政8年〉

文政8年『神社仏閣順拝帳』
四国76番 鶏足山 金倉寺(こんぞうじ)

金倉寺の納経印

善通寺からは順番通りに四国八十八ヶ所を巡拝しています。次に向かったのは76番金倉寺。智証大師円珍の御誕生地として知られる天台寺門宗の別格本山です。

寺伝によれば、宝亀5年(774)和気道善が一堂を建立し、等身の如意輪観音を祀り、自在王堂と名付けたことに始まるとされます。仁寿元年(851)道善の子で智証大師の父である宅成が自在王堂を官寺とすることを奏上し、許されて道善寺と改めました。天安2年(858)唐から帰国した智証大師は、長安の青龍寺に倣った伽藍を造営し、貞観3年(861)完成したといいます。延長6年(928)醍醐天皇の勅により金倉郷の名から金倉寺と改められました。

智証大師は第5代天台座主で、三井寺を中興し、天台寺門宗の祖とされます。父は和気宅成、母は佐伯氏の娘で、弘法大師の妹とも姪ともいわれます。幼いころから聡明で、3歳の頃、智証大師を見た弘法大師は「智慧童子」と名付けたといいます。また5歳の頃、一人で遊んでいるときに訶利帝母(鬼子母神)が現れ、教法護持を約束しました。これが日本で最初の訶利帝母出現の記録であることから、「訶利帝母日本最初出現之地」とされます。

目次

金倉寺の納経

金倉寺の納経印

文字部分は印版で、右から順に
「奉納経」
「金堂本尊薬師如来」
「智證大師御誕生地」
「訶利帝母御出現所」
「讃州雞足山金倉寺」
「酉ノ三月十日」「役者」

印版の山号は、つくりが「鳥」の「鶏」ではなく「隹」の「雞」になっていますが、意味は同じです。

中央の朱印はなく、右上の印は「四国七十六番」、左下は「鶏足」。

金倉寺では善通寺と同じく昭和の初めまで印版が用いられていたようで、文面も江戸時代とほぼ同じだったようです。
例:明治38年の納経帳

文面は、まず冒頭に金堂本尊薬師如来とありますが、同様の扱いで智証大師の御誕生所であること、訶利帝母(鬼子母神)の御出現所であることが並んでいます。そもそも「金堂の本尊」という書き方をする時点で、本尊が中核的な要素というわけではないことが推察されます。『納経請取状』の名残でしょうが、もともと納経帳の墨書(または印版)の中央部分は、納経した神社仏閣がどういうところかを説明するためのものであって、それが寺社名であったり、御本尊や御祭神の名前であったり、由緒や格式であったりというのが古い形なのだろうと思います。

それが、次第に御本尊の名や御本尊を祀るお堂、神社名(まれに祭神名)という形に集約されていくと同時に、御朱印・納経印は御本尊・御祭神からいただくものという観念が成立していったのでしょう。

金倉寺の概要

現名称:金倉寺
御本尊:薬師如来
所在地:讃岐国那珂郡金蔵寺村(香川県善通寺市金蔵寺町)
宗派等:天台寺門宗別格本山
http://www.kagawa-konzouji.or.jp/

文政8年『神社仏閣順拝帳』
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