文政8年『神社仏閣順拝帳』
西国27番 書寫山 圓教寺
播磨国飾西郡東坂本村(兵庫県姫路市書写)
四国八十八ヶ所・吉備津宮・杵築大社の巡拝を終えた太郎助は、成相寺で中断していた西国三十三所の巡拝を再開します。まずは三十三所の中で最も西にある27番の書写山円教寺から。
姫路城の北約7kmにある書写山の山上に壮大な円教寺の伽藍があります。「西の比叡山」とも称される天台宗の別格本山で、開山は書写上人と呼ばれる性空上人です。
性空上人は京都の生まれで、10歳で法華経を読み始め、36歳の時に慈恵大師(元三大師)良源にしたがって出家しました。日向の霧島山や筑前の背振山で修業した後、康保3年(966)書写山に入り、草庵を結んだのが円教寺の開創とされます。
天禄元年(970)如意輪堂(現在の摩尼殿)を建立、弟子の安鎮が生木の桜に刻んだ如意輪観音を本尊として祀りました。寛和元年(985)には播磨の国司・藤原季孝が性空に帰依し、法華堂を建立しました。
寛和2年(986)には花山法皇が来山して米100石を寄進、円教寺の勅号を賜り、御願寺となりました。性空はこの寄進を作料として講堂を建立しました。性空の名は都でも高まり、藤原実資、藤原公任、源信をはじめとする貴族や高僧が参詣、また藤原道長が性空の勧めにより自邸で千部仁王経供養を行っています。これらの人々の帰依により、性空上人の在世中に多くの堂塔が建てられ、伽藍が整備されました。
その後も後白河法皇や後醍醐天皇が行幸したのをはじめとして皇族・貴族・武将から庶民に至る幅広い信仰を集め、播磨国屈指の名刹として隆盛を誇りました。『梁塵秘抄』には聖の集まるところとして大峰山や葛城山などとともに名前が挙げられています。
応永5年(1398)から明治維新までは女人禁制でした。そのため、女性の巡礼は書写山の麓・東坂本の女人堂(現在の如意輪寺)で納経しました。
文化10年(1813)書写山女人堂の納経。阿波国板野郡大寺村(徳島県板野郡板野町)三橋茂兵衛が西国三十三所を回った納経帳ですが、母・フサを同行していたため、女人堂での納経となったようです。
もちろん、太郎助は書写山上の摩尼殿に参拝しています。
円教寺の納経
順拝帳を見ると、右から順に
「奉納経」
「書写山摩尼殿」
「酉四月廿七日」「行者丈」
「丈」は男性の名前の後につけて敬意を表す語ですが、現代では歌舞伎ののぼりぐらいしか見かけることはないと思います。初期の納経帳では「殿」を使っている例もありますので、「行者殿」というような意味になります。
「行者」は太郎助のことで、初期の納経帳には個人名が書かれているのですが、次第に一律「行者」とするようになり、さらに宛名自体が省略されるようになります。太郎助の順拝帳でも、四国八十八ヶ所では大半が省略していました。
朱印は右上に「西國廿七番」、中央下に「圓教寺印」。中央の宝印はありません。
円教寺の概要
書寫山 圓教寺(えんぎょうじ)
現名称:書写山 円教寺
御本尊:如意輪観世音菩薩
創建年代:康保3年(966)
開基:性空上人
所在地:播磨国飾西郡東坂本村(兵庫県姫路市書写)
宗派等:天台宗 別格本山
http://www.shosha.or.jp/
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