四国42番 佛木寺〈文政8年〉

文政8年『神社仏閣順拝帳』
四国42番 一カ山 毘廬舎那院 佛木寺
伊豫国宇和郡則村(愛媛県宇和島市三間町則)

四国42番佛木寺の納経

42番佛木寺の納経には参拝の日付が入っていませんが、41番龍光寺と同じ3月29日に参拝したと考えて間違いないでしょう(42番明石寺の日付は29日か30日か判読しづらい)。

佛木寺に限らず、太郎助の順拝帳を見ると伊予国の札所26ヶ所中、13ヶ所に日付がありません(番外小村大師庵には日付あり)。同時期の他の納経帳では他の三国でも日付のない納経が見られます。

現代では、四国八十八ヶ所の札所は番外も含めて日付を入れないのが普通ですが、それがすでに始まっていたことがわかります。幕末には日付を入れないのが主流になり、明治になると日付入りの納経はほとんど見られなくなります。四国以外では一貫して日付を入れるのが一般的なのとは対照的です。四国は他よりも巡拝者が多いために手間を省くようになったのでしょうか。

寺伝によれば、大同2年(807)四国を巡錫していた弘法大師は、当地で牛を曳いた老人に出遭いました。老人に勧められて牛に乗り、しばらく進んでいくと楠の大木があり、枝に宝珠がかかって輝いていました。その宝珠は唐より帰朝する際、有縁の地を求めて三鈷とともに投じたものでした。

これを見た大師は、この地が仏法流布の霊地であることを悟り、一寺を建立しました。そして宝珠のかかっていた楠で大日如来の像を刻み、眉間に宝珠を納めて本尊としました。これが仏木寺の起こりで、山号・寺号はこの縁起に因みます。

中世には領主・西園寺氏の祈祷所・菩提寺として栄えました。また、古くから牛馬やペットの守護仏として近隣の信仰を集めています。

本堂は享保13年(1728)、珍しい茅葺の鐘楼は元禄年間(1688~1704)の再建ということで、太郎助が参拝した時と同じものです。

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佛木寺の納経

四国42番仏木寺の納経

『順拝帳』を見ると、墨書部分は右から順に

「奉納」
「本尊大日如来」
「■■一カ(王+果)山」
「佛木寺」

3行目の上は判読できません。通常なら「伊豫」「イヨ」「豫州」などが入るところですが、下の文字は「国」のようにも見えます。もしかすると「イヨ国」なのかもしれませんが、よくわかりません。

山号「一カ山」の「カ」は王偏に「果」、「一顆」と同義なのではないかと思います。

中央の朱印は十六八重菊の御紋、平城天皇の勅願寺という伝承もあるようなので、それに因むのかもしれません。右上は「四国四十二番」、左下は「仏木寺」で両脇に「木」の字があるようです。

江戸初期の四国遍路―澄禅『四国辺路日記』の道再現江戸初期の四国遍路―澄禅『四国辺路日記』の道再現

佛木寺の概要

カ山 毘廬舎那院 佛木寺(ぶつもくじ)
現名称:一カ山 毘廬舎那院 佛木寺
御本尊:大日如来
創建年代:大同2年(807)
開山:弘法大師
所在地:伊豫国宇和郡則村(愛媛県宇和島市三間町則)
宗派等:真言宗御室派
※ 一カ山の「カ」は王偏に「果」

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