文政8年『神社仏閣順拝帳』
四国64番 石鈇山 金色院 里前神寺
伊豫国新居郡西田分(愛媛県西条市西田甲)
四国64番前神寺は石鎚山の別当でした。文政8年当時は里前神寺と称しており、現在の石鎚神社・本社口之宮の地にありました。
弘法大師が石鎚山で修業されたことは大師直筆の『聾瞽指帰』にも明らかです。
寺伝によれば、天武天皇の御代、役行者小角が石鎚山で修業中、釈迦如来と阿弥陀如来が衆生済度のために石鈇蔵王権現として示現しました。その感得した姿を像に刻んで安置したことにはじまると伝えられます。
桓武天皇が病気平癒を祈願したところ霊験があり、七堂伽藍を建立、「金色院前神寺」の号を下賜されました。以来、朝廷や武将の崇敬篤く、仏像や経巻の寄進、堂舎の造営などが行われました。
江戸時代は西条藩の庇護を受け、各地に石鎚講が結ばれて寺運は隆盛しました。しかし、明治の神仏分離により廃寺とされ、石鎚神社となりました。明治12年(1879)末寺の医王院に本尊と石鎚蔵王権現の像を遷し、前上寺として復興。同40年(1907)前神寺の旧号に復しました。戦後は御室派から独立、真言宗石鈇派の総本山となっています。
さて、横峰寺のところでも書きましたが、太郎助が参拝した文政8年(1825)は前神寺にとって重要な意味を持つ年でした。
本来、四国64番札所は石鎚山そのもので、別当職は前神寺が専称していたようです。前神寺は現在の石鎚神社成就社(元は常住社と称した)にあり、その先は浄域・とされて普段は入ることができませんでした。
そのため、江戸時代の初めには前神寺(常住社)まで行かず、前札所とされた横峰寺の鉄の鳥居(星ヶ森)で石鎚山を遥拝し、札を納めるようになっていたことが澄禅の『四国辺路日記』などから伺えます。これに対して、前神寺は登山口である現在の石鎚神社口之宮本社の地(石鎚神社の旧本殿である祖霊殿の前に登山口があります)に里前神寺を建立して事実上の札所とし、常住社の本寺(金色院)は奥前神寺と称するようになりました。
ところが、享保14年(1829)横峰寺が石鈇山横峰寺別当という印を使ったことをきっかけに、前神寺と横峰寺が石鎚山の別当職を巡って争うことになりました。さらに奥前神寺の地所を巡って西条藩領・前神寺側の大保木村と小松藩領・横峰寺側の千足山村が争論となり、江戸表で争うことになったのです。
これに対する幕府の裁決がおりたのが文政8年で、石鈇山の別当は前神寺とし、横峰寺は佛光山石鈇社別当を称すること、奥前神寺の地所は千足山村とし、建物は前神寺とすること、ただし奥前神寺とは呼ばずに常住社と称することなどが定められました。
江戸時代の前神寺の納経には、以上の経緯が色濃く反映されています。太郎助の『順拝帳』もそうで、前神寺と横峰寺が係争中だった時期を背景としています。
里前神寺の納経
『順拝帳』を見ると、墨書部分は版木押しで、右から順に
「四国霊場六十四番」
「石鈇山大悲蔵王権現広前」
「別当前神密寺」「里寺納経所」
「酉四月六日」
中央に朱印(宝印)はなく、左下に黒印があるのみです。黒印は判読しづらいのですが、「南海層峯」ではないかと思います。
注目すべき点は、「里前神寺」ではなく「前神寺里寺納経所」になっているところでしょう。
奥前神寺(現在の石鎚神社成就社)は標高約1450m、人が住むには大変なところです(現在、四国八十八ヶ所でもっとも高いところにある66番雲辺寺で911m)。そのため、里前神寺ができた後、寺としての機能はほぼそちらに移されていたと考えられます。里前神寺より石鎚山・奥前神寺に近く、前札所としての役割も果たしていた横峰寺が、奥前神寺の管理権と石鎚山の別当職を主張するようになったのも、そういう背景があったものと思われます。
裁許の内容から考えると、奥前神寺の呼称をやめて常住社とするというのは横峰寺側の主張を容れたものと考えられます。横峰寺としては、石鎚山の別当である奥前神寺=常住社と里前神寺を切り離し、常住社に対する里前神寺と同等の権限と石鎚山の別当職を確保しようとしたのではないでしょうか。
これに対して、里前神寺としては自らが唯一の別当職であることを主張するために、奥前神寺との一体性を強調する必要がありました。そのために里前神寺という寺院ではなく、あくまで本寺である奥前神寺の里寺納経所、いわば参拝者の便宜を図るための出張所という位置づけにしているのだと思われます。
幕府の裁許により、奥前神寺が常住社となり、これに伴って里前神寺も単に前神寺と称するようになりました。別当職と常住社の管理権が確保できたため、奥前神寺を本寺とする建て前を保つ必要がなくなったのでしょう。
天保11年(1840)の前神寺の納経。「別当前神密寺」となっています。
なお、前神寺の中央に朱印(宝印)を押さず、左下に「南海層峯」と思われる黒印を押すのみというスタイルは、神仏分離による廃寺・復興を経た明治後半まで続いています。
里前神寺の概要
石鈇山 金色院 里前神寺(さとまえがみじ)
現名称:石鈇山 金色院 前神寺
御本尊:石鈇蔵王権現・阿弥陀如来
創建年代:天武天皇の御代
開基:役行者神変大菩薩
所在地:伊豫国新居郡西田分(移転/愛媛県西条市洲之内甲)
宗派等:石鈇山真言宗総本山(当時は仁和寺末)
現名称:石鎚神社
御祭神:石鎚毘古命
創建年代:天武天皇の御代
鎮座地:伊豫国新居郡西田分(愛媛県西条市西田甲)
社格等:旧県社、別表神社
http://ishizuchisan.jp/
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