四国59番 伊予国分寺〈文政8年〉

文政8年『神社仏閣順拝帳』
四国59番 金光山 最勝院 國分寺
伊豫国越智郡国分村(愛媛県今治市国分)

四国59番伊予国分寺の納経

四国25日目の4月4日は54番円明寺(現・延命寺)から59番国分寺まで。現在の今治市内にある札所になります。

伊豫国分寺は天平13年(741)聖武天皇の詔によって全国に建立された国分寺の一つです。寺伝では行基菩薩により創建とされます。国分寺は『金光明最勝王経』の信仰に基づく国家鎮護のための寺院ですが、伊豫国分寺はそれがよくわかる山号・院号となっています。

天平勝宝8年(756)に伊豫など26ヶ国の国分寺に仏具等を施入したという記事が『続日本紀』にあり、この頃までには完成していたと考えられています。

当時の伽藍は現在地より少し東にあったようで、境内の東方100mほどのところに七重塔の礎石が残っています。全国の国分寺でも屈指の規模を誇る壮大な伽藍だったようです。

第3世・智法律師のとき、弘法大師が留錫して五大明王の画像1幅を寄進。その後、弟子の真如法親王も法華経を奉納したと伝えられます。

しかし天慶2年(939)の藤原住友の乱、元暦元年(1184)の源平合戦、貞治3年(1364)の細川頼之による兵火などで焼失。そのたびに領主等によって再建されましたが、天正12年(1584)長曽我部の兵火で焼失した後は茅葺の小堂が残るのみとなりました。寂本の『四国徧礼霊場記』にはその有様に「痛絶すべし」と記しています。

歴代住職の尽力により、現在の本堂が再建されたのは寛政元年(1789)恵光上人の代のことで、太郎助の参拝の26年前になります。

なお、鎌倉時代、西日本の国分寺の多くは西大寺の興正菩薩叡尊の弟子である忍性・信空らによって再興され、西大寺の末寺(真言律宗)となりました。その後、他国の国分寺の多くは他派に転じましたが、伊豫国分寺は現在も当時の関係を維持し、真言律宗の別格本山となっています。

伊予国分寺の納経

四国59番伊予国分寺の納経

『順拝帳』を見ると、墨書部分は右から順に

「奉納経」
「本尊薬師如来」
「酉四月四日」
「金光山国分寺」

中央上の宝印は蓮台上の宝珠に薬師如来の種字「ベイ」。右上の印は「四國第五十九番」、左下の印はかすれて判読しづらいのですが、同時期の納経帳から判断して「伊豫國分密寺」のようです。

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伊予国分寺の概要

金光山 最勝院 國分寺(こくぶんじ)
現名称:金光山 最勝院 国分寺
御本尊:薬師瑠璃光如来
創建年代:天平13年(741)
開山:行基菩薩
所在地:伊豫国越智郡国分村(愛媛県今治市国分)
宗派等:真言律宗(別格本山)

文政8年『神社仏閣順拝帳』
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