金峯神社(長岡)

新潟県長岡市西蔵王2-6-19 [Mapion|googlemap]

金峯神社

金峯神社(きんぷじんじゃ)
正式名称:金峯神社
旧称:蔵王権現
通称:蔵王さま
御祭神:金山彦命 /相殿(又倉神社):大地主命・須勢理比売命・沼奈川比売命
創建年代:和銅2年(709)
例祭:7月15日
社格等:旧県社
http://www.kinpu.jp/

【御由緒】
金峯神社は、江戸時代までは蔵王権現・蔵王堂と称する神仏習合の霊場でした。今でも近隣の人からは「蔵王さま」と呼ばれています。

社伝によれば、和銅2年(709)元明天皇の勅により、北国鎮護のため大和国吉野山(奈良県吉野郡吉野町)の蔵王権現を越後国古志郡楡原(長岡市楡原)に勧請したことにはじまるといいます。なお宝亀5年(774)あるいは大同5年(810)の創祀との説もあるようです。

当時は大伽藍を構え、寺院数ヶ寺、僧坊38坊、僧侶・山伏修験者数千人を擁する大霊場として北陸から奥州にその勢力を及ぼしました。

信州戸隠出身の周国は、越後国蔵王権現の三尺坊で修行し、院主となって三尺坊と呼ばれました。三尺坊は不動明王三昧の秘法を修し、満願の夜に迦楼羅天の姿に変化、飛行自在の神通力を獲得しました。さらに白狐が現れたのでその背に乗り、遠州の秋葉山に降りて衆生済度を行いました。これが名高い秋葉三尺坊です。

その後、蔵王堂の衆徒は蒲原地方の豪族と戦って敗北、大伽藍は焼失してしまったため、仏体を守護して三島郡矢田(長岡市矢田)に遷りました。

仁治3年(1242)中越地方の中心として栄えていた又倉村の又倉神社境内に遷座、神仏習合の霊場となりました。又倉神社は延喜式神名帳に記載された宇奈具志神社とされ、その神威を称えて「王神様」と呼ばれました。今も11月5日に行われる王神祭は又倉神社の祭礼です。

その後、蔵王権現の信仰が盛んになり、又倉神社が境内社の扱いを受けるようになりました。福島県西会津町の真福寺には正平8年(1353)越後国蔵王堂が六十六部廻国行者に出した納経請取状が残っており、越後国を代表する霊場であったことが推察できます。

また、南北朝時代には蔵王堂城が築かれ、南朝方と北朝方が戦いました。その後、上杉家の支配下に入ると、蔵王堂は天台宗から真言宗に改められたといいます。

慶長10年(1605)蔵王堂城主・堀直竒は南方の平方原に築城を開始、元和4年(1618)完成しました。これが長岡城で、蔵王堂城は廃城となり、蔵王堂門前町は新しい長岡城下へと移転しました。この年、長岡藩主となった牧野氏は社領40石を寄進しています。

慶長19年(1614)天海僧正の強い要請により、蔵王堂の別当・安禅寺が天台宗に改められます。寛永2年(1625)東叡山寛永寺が創建されると、その配下となりました。蔵王村は天領となり、蔵王権現は「(長岡・古志・三島)八十ヶ町村の総氏神」「中越地方の総鎮守」として尊崇されました。

慶安元年(1648)には徳川家光より朱印地300石を寄せられました。当時、坊屋敷は13坊、社家は6家あったといいます。

明治4年(1871)蔵王権現の号を廃して金峯神社と改称。大区・小区制が施行され、氏子の大半が分離されました。明治6年(1873)新潟県で最初の県社に列格しました。

平成15年(2003)不審火で拝殿が焼失、翌16年(2004)には中越大地震により大きな被害を受けましたが、平成17年(2005)現在の拝殿が再建されました。

金峯神社の御朱印

御朱印は授与所にていただきました。

金峯神社の御朱印

中央の朱印は「金峯神社」。右上の印は八稜鏡に「金峯神璽」。

越佐の神社 式内社六十三越佐の神社 式内社六十三

金峯神社の参拝記

金峯神社は信濃川のほとり、旧蔵王堂城の二の丸跡に鎮座します。この場所に遷座したのは正徳5年(1715)のことのようです。

JR北長岡駅から徒歩10分余りで金峯神社に到着します。本殿脇から境内に入るような感じになるので、そのまま表参道を南下し、一の鳥居まで向かいました。

一の鳥居

一の鳥居。

二の鳥居

二の鳥居。200mほどある参道の中間あたりに建っています。

手水舎

手水舎。

蔵王の大欅

御神木・蔵王の大欅。長岡市の天然記念物で、樹齢は約800年。蔵王堂がこの地に遷座して以来の御神木だそうです。

拝殿

拝殿。

本殿

本殿。

蔵王堂城跡

蔵王堂城の本丸跡。中世の城には珍しい平城です。満開の桜の中を鯉のぼりが泳いでいました。

堀直竒公像

本丸跡に立つ堀直竒公銅像。

安禅寺

旧別当・安禅寺は明治の神仏分離で廃寺となりますが、明治17年(1884)再興されました。

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