西国6番 壺坂寺(壺阪寺/南法華寺)〈文政8年〉

文政8年『神社仏閣順拝帳』
西国6番 壺坂山 南法華寺(壺坂寺/壺阪寺)
大和国高市郡壺坂(奈良県高市郡高取町壺阪)

壺阪寺の納経

西国6番壺阪山南法華寺は、壺阪寺の通称で広く知られています。江戸時代までは阜偏ではなく土偏の「壺坂」と書いていたようです。

寺伝によれば、大宝3年(703)元興寺の僧・弁基上人がこの山の山中で修行中、秘蔵の水晶の壺の中に観世音菩薩を感得しました。そこで、その壺を坂の上の庵に安置し、感得した観世音菩薩の姿を刻んで祀ったことから「壺坂」と称されるようになったといます。その後、元正天皇が勅願寺とし、「南法華寺」の寺号を賜りました。

南法華寺の名は平城京の法華寺に対するものとされます。Wikipediaには「京都の清水寺の北法華寺に対し南法華寺といい」とあるのですが、その典拠を見つけることができませんでした。そもそも清水寺を北法華寺と称したという資料が見つかりません。

京都の清水寺の開基は子島寺の僧・延鎮上人で、子島寺を南観音寺と称するのに対して北観音寺と名付けられました。子島寺は壺阪寺の近くにあり、非常に密接な関係があったそうなので、そのあたりの混同があるのではないかと思うのですが、どうでしょうか。

承和14年(847)長谷寺とともに定額寺に列し、『延喜式』主税寮には壺坂寺料として稲三千束を受けています。清少納言は『枕草子』で「寺は壺坂、笠置、法輪…」とその筆頭に挙げるなど、古くから重んじられていたようです。

永観年間(983~85)壺阪寺の復興に当たった子島寺の真興が東密(真言宗に伝わる密教)の子島流(壺坂流)を開くと、その根本道場として繁栄しました。最盛期には山内に36堂、60余坊を誇ったといいます。

室町時代の末には当寺を庇護してきた越智氏の滅亡とともに衰退しましたが、江戸時代には幕府より朱印料50石を寄せられ、また高取藩主の本多氏・植村氏の庇護を受けて諸堂の修築が行われました。

本堂は太郎助の参拝の2年後、文政10年(1827)の落慶。その前に建つ礼堂(重要文化財)は室町時代の再建ですが、江戸時代には大改築が行われて規模が縮小されました。昭和の初めに行われた解体修理において、室町時代の大きさに復元したそうですので、太郎助参拝当時とは姿が違っているかもしれません。明応6年(1497)再建の三重塔(重要文化財)は当時と同じ姿だろうと思います。

ところで、壺阪寺は眼病封じの霊験で知られ、ことに沢市とお里の夫婦愛を描いた『壺阪霊験記』は有名です。元は人形浄瑠璃ですが、歌舞伎や講談、浪曲でも演じられました。ただし、初演は明治になってからのようです。

壺阪寺の納経

西国6番壺阪寺の納経

『順拝帳』を見ると、揮毫は右から順に

「奉納経」
「本尊千手観世音」
「大和国 壺阪寺」「役者」
「酉六月朔日」

中央の宝印は蓮台上の壺に千手観音の種字「キリーク」、右上は「西国第六番」、左下は「壺坂山」。

壺に「キリーク」というのは、寺号もしくは寺の開創伝承に因んでいるのではないかと思います。因みに、現在は一般的な火炎宝珠に「キリーク」の宝印を使っています。

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壺阪寺の概要

壺坂山 南法華寺(みなみほっけじ)
現名称:壺阪山 南法華寺
通称:壺阪寺(江戸時代以前は「壺坂寺」)
御本尊:十一面千手千眼観世音菩薩
創建年代:大宝3年(703)
開基:弁基上人
大和国高市郡壺坂(奈良県高市郡高取町壺阪)
宗派等:真言系単立(もとは真言宗豊山派)
http://www.tsubosaka1300.or.jp/

文政8年『神社仏閣順拝帳』
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