四天王寺〈文政8年〉

文政8年『神社仏閣順拝帳』
荒陵山 四天王寺
摂津国東生郡天王寺村(大阪市天王寺区四天王寺)

四天王寺の納経

西国4番・槙尾山施福寺を参拝した太郎助は、大阪の四天王寺を参拝しています。当時、施福寺から5番葛井寺に向かう巡礼者は、四天王寺から平野郷町(大阪市平野区)を経由するのが順路とされていたそうです。四天王寺が西国の番外札所として定着していたのでしょう。

よく知られているように、四天王寺は日本仏教の祖とされる聖徳太子によって建立され、蘇我馬子の建立した法興寺(飛鳥寺)とともに日本でもっとも古い仏教寺院です。

用明天皇2年(587)聖徳太子は物部守屋との戦いに際し、「今若し我をして敵に勝たしめたまはば、必ず護世四王(四天王)の奉為に、寺塔を起立てむ」という誓願を立てました。そして戦勝の後、摂津国に四天王寺を創建し、守屋の有していた奴・宅地を寄進したと伝えられます。

奈良時代には中心伽藍(敬田院)の東側に聖霊院(太子殿)が建立され、太子信仰の中心となりました。平安時代になると聖徳太子に対する信仰が高まり、藤原道長や白河法皇を始め、皇族・貴族から庶民に至るまで多くの人々が参詣しました。また、浄土教が盛んになると、四天王寺の西門が極楽浄土の東門に通じているという信仰も興り、多くの念仏聖が集まるようになりました。

創建以来、戦乱や火災で伽藍が焼失すること度々でした。太郎助が参拝した当時の伽藍は、享和元年(1801)落雷による火災の後、文化9年(1812)に再建されたものでした。しかし、これも昭和20年(1945)の空襲で焼失し、現在の建物の大半は戦後に再建されています。

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四天王寺の納経

四天王寺の納経

順拝帳を見ると、墨書部分は右から順に

「日本佛法最初」
「聖徳皇太子御宝殿」
「摂州」「四天王寺」
「酉五月廿六日」

中央の宝印は「諸法実相」。右上の印は判読できませんが、糸偏の文字のようなので「納経」などの言葉かも知れません。左下は「○○講世話人」で、○○部分は判読できません。

「聖徳皇太子御宝殿」とありますので、伽藍(敬田殿)ではなく太子殿(聖霊院)の納経ということになるのだと思います。高野山の納経も、伽藍ではなく奥の院の弘法大師の御廟でした。太郎助の順拝帳にはありませんが、他の江戸時代の納経帳では、比叡山も根本中堂などではなく、伝教大師の御廟である浄土院になっていました。

こうしたことから考えると、江戸時代には各宗派の祖師が身近な信仰対象になっていたのではないでしょうか。知恩院や東西本願寺で、阿弥陀如来を祀る阿弥陀堂(本堂)より法然上人や親鸞聖人を祀る御影堂のほうが巨大なのも同じようなことなのかもしれません。

聖徳太子: 実像と伝説の間聖徳太子: 実像と伝説の間

四天王寺の概要

荒陵山 四天王寺(してんのうじ)
現名称:荒陵山 四天王寺
御本尊:救世観世音菩薩
創建年代:推古天皇元年(593)
開基:聖徳太子
摂津国東生郡天王寺村(大阪市天王寺区四天王寺)
宗派等:和宗総本山(当時は天台宗)

文政8年『神社仏閣順拝帳』
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