四国73番 出釈迦寺〈文政8年〉

文政8年『神社仏閣順拝帳』
四国73番 我拝師山 出釈迦寺
讃岐国多度郡吉原村(香川県善通寺市吉原町)

四国73番出釈迦寺の納経

73番出釈迦寺はもともと72番曼荼羅寺の奥の院だったといわれます。西行の『山家集』で「曼荼羅寺の行道所」と呼ばれているのも、その傍証になるでしょう。

伝承によれば、弘法大師が7歳のとき、我拝師山に登り、「もし仏門に入って衆生を救済したいという願いが叶うならば霊験を現わし給え、叶わないのであれば我が身を持って諸仏を供養しよう」と念じて断崖から身を投じました。すると紫雲が湧き上がって釈迦如来が現れ、天女が大師を受け止めました。そして釈迦如来は「一生成仏」と告げました。

願いが成就することを告げられた大師は感激して釈迦如来の姿を刻み、釈迦如来の表れた場所に一宇を建立しました。現在、奥の院の根本御堂がある場所で、これが出釈迦寺のはじまりとされます。大師が身を投じたとされるのは、根本御堂から50mほど岩場を登った捨身ヶ嶽禅定です。また、これに因んで、この山を「我拝師山」と呼ぶようになったと伝えられています。

本来の札所は我拝師山山頂近くにある現在の奥の院でしたが、今から300年ほど前、山麓に寺が建立され、そちらに札を納めるようになりました。とはいえ、熱心な遍路は山上の行道所・捨身ヶ嶽禅定まで登ったことでしょう。

山上の札所について、承応2年(1653)に四国を巡拝した澄禅は、魔風のために一夜にして堂舎が倒壊し、その残骸が残っている様子を記しています。また、貞享4年(1687)の『四国辺路道指南』には、由緒はあっても堂舎がないので、近年、麓に堂と寺が建てられ、そちらで札を納めるとあります。現在地に寺が建てられたのは、この30年ほどの間でしょう『四国徧礼霊場記』によれば、寺を建てたのは宗善という人だったようです。

太郎助が参拝した時には、すでに納経は山麓の寺で行っていたと考えて間違いありませんが、捨身ヶ嶽禅定まで登ったかどうかはわかりません。四国だけの巡拝ではありませんから、登らずに先を急いだのではないでしょうか。

出釈迦寺の納経

四国73番出釈迦寺の納経

順拝帳を見ると、墨書部分は版木押しで、右から順に

「奉納経」
「本尊釈迦如来」
「西讃」「我拝師山」
「出釈迦寺」
「酉四月八日」

中央に朱印(宝印)はありません。右上の印は白抜きで「七十三番」、左下は「我拝師山 出釈迦寺」。

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出釈迦寺の概要

我拝師山 出釈迦寺(しゅっしゃかじ)
現名称:我拝師山 求聞持院 出釈迦寺
御本尊:釈迦如来
創建年代:奈良時代後期~平安時代前期
開基:弘法大師
所在地:讃岐国多度郡吉原村(香川県善通寺市吉原町)
宗派等:真言宗御室派
http://www.shushakaji.jp/

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