四国69番 観音寺〈文政8年〉

四国69番観音寺の納経

文政8年『神社仏閣順拝帳』
四国69番 七宝山 神恵院 観音寺
讃岐国豊田郡寺家分(香川県観音寺市八幡町)

四国69番観音寺の納経

68番神恵院と69番観音寺は一つの境内に二つの札所があることで知られていますが、江戸時代以前の納経帳を見ると、当時も観音寺で2ヶ所分の納経を行っていたようです。

江戸時代までの68番札所は琴弾八幡宮で、69番札所の観音寺は琴弾八幡宮の別当でした。四国八十八ヶ所には神社が札所だったところがいくつかありますが、神社と別当寺がともに札所だったというところは他にありません。

納経帳には、68番の別当としては院号の神恵院、69番札所としては寺号の観音寺と記していました。

明治時代、27番神峰寺が廃されて26番金剛頂寺が二つの札所を兼ねていた頃の納経帳を見ると、26番を「西寺(金剛頂寺の通称)」、27番を「龍頭山(金剛頂寺の山号)」などと使い分けている例があります(使い分けてない例もありますが)。印章などでも、同じ字が重なる場合はわざと書体を変えたり異体字を使ったりする例があるのと同じような感覚ではないかと思います。

明治の神仏分離以後、神社が札所だったところは、別当寺が存続していれば別当寺が札所を引き継ぎ、廃寺となった場合は他の札所が兼ねたり、近隣の寺院が相続したりしました。

68番札所は別当の観音寺に引き継がれ、なおかつ観音寺が69番札所であったため、結果的に二つの札所が同居することになったわけです。

観音寺は、大宝3年(703)日証上人が琴弾八幡宮を創建した際、その神宮寺として建立されたと伝えられます。当時は神宮寺宝光院と称する法相宗の寺でした。

大同2年(807)琴弾八幡宮に本地仏・阿弥陀如来の画像を納めたとき、琴弾八幡宮の乗っていた神船は神功皇后にゆかりがあり、観世音菩薩の化身であることを感得しました。そこで、奈良の興福寺を模した伽藍を建立し、聖観世音菩薩の像を刻んで中金堂に納め、本尊としました。

さらに西金堂には薬師如来と十二神将、東金堂には弥勒菩薩を安置。仏塔を建立して七宝(金、銀、瑠璃、瑪瑙など七種の宝物)を納め、七宝山観音寺と号する真言宗の寺院としました。その後、理源大師聖宝が住職となり、院号を神恵院に改めたと伝えられます。

以後、寺運は隆盛し、室町時代には足利尊氏の子・道尊大僧正が住職を務めました。寛文7年(1667)には寺社奉行より無本寺であることを認められています。

明治の神仏分離により、琴弾八幡宮と観音寺は分離独立。琴弾八幡宮の本地堂に祀られていた阿弥陀如来を観音寺の西金堂に遷すとともに、68番札所も引き継ぎました。以来、68番札所としては神恵院、69番札所としては観音寺を称していますが、江戸時代以前の伝統に則っているとも言えるでしょう。

目次

観音寺の納経

四国69番観音寺の納経

順拝帳を見ると、墨書部分は版木押しで、右から順に

「奉納」
「本尊聖観音」
「右同所」
「別当」「観音寺」
「酉四月八日」

中央に朱印(宝印)はありません。右上の印は白抜きで「六十九番」、左下は「七宝山観音寺」で神恵院の納経と同じもの。当時から2ヶ所分の納経を行っていたことがよくわかります。

四国遍路の寺 上 (角川ソフィア文庫)四国遍路の寺 上 (角川ソフィア文庫)

観音寺の概要

七宝山 神恵院 観音寺(かんおんじ)
現名称:七宝山 観音寺
御本尊:聖観世音菩薩
創建年代:大宝3年(703)
開基:日証上人
所在地:讃岐国豊田郡寺家分(香川県観音寺市八幡町)
宗派等:真言宗大覚寺派

文政8年『神社仏閣順拝帳』
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