文政8年『神社仏閣順拝帳』
四国50番 東山 瑠璃光院 繁多寺
伊豫国温泉郡畑寺村(愛媛県松山市畑寺町)
四国50番繁多寺は、道後平野の東、松山の城下を一望する高台の上にあります。
寺伝によれば、天平勝宝年間(749~57)孝謙天皇の勅願により行基菩薩が開創し、御自作の薬師如来像を本尊として安置しました。
当時は光明寺と号しましたが、弘仁年間(810~24)弘法大師が留錫した際、繁多寺に改めたと伝えられます。
その後、寺運は衰退しますが、源頼義や堯蓮により再興されました。弘安2年(1279)後宇多天皇の勅命により、聞月上人が蒙古撃退の祈祷を修しています。四宗兼学の学問寺として栄え、最盛期には僧坊36、末寺100余を誇ったといいます。
正応元年(1288)には一遍上人が3日間参籠し、父・如仏の遺品の浄土三部経を寄進しました。
皇室の菩提寺である京都の泉涌寺との関わりが深く、応永2年(1395)後小松天皇の勅により、泉涌寺第26世の快翁和尚が住職となっています。現在は真言宗豊山派ですが、江戸時代までは泉涌寺の末寺で中本寺格でした。
天和年間(1681~84)名僧・龍湖和尚が住職となり、寺の再興に尽力しました。また、徳川家の帰依を受け、4代将軍家綱の念持仏であった歓喜天を寄進されています。現在の伽藍は龍湖の再建によるものです。
元禄2年(1689)に刊行された寂本の『四国徧礼霊場記』に「規模は広くないが、心清く整え磨き上げられている」とあるのは龍湖和尚の再建から間もないころの様子でしょうが、それから百年余り後に参拝した太郎助も同じような感想を持ったのではないでしょうか。
繁多寺の納経
『順拝帳』を見ると、墨書部分は右から順に
「奉納経」
「本尊薬師如来」
「いよまつ山領(伊豫松山領)」
「はんたじ(繁多寺)」
「酉四月三日」
「はんたじ」のうち「は」は「者」、「た」は「堂」を崩した変体仮名を使っています。「ま津山」の「津」も漢字ではなく変体仮名でしょう。
中央の朱印は宝珠に薬師如来の種字「ベイ」、右上は「五十番」。左下は「四宗兼学」で、かつて四宗兼学の学問寺であった歴史を示しています。
四国遍路 同行二人 3 菩提の道場 ~愛媛県の霊場~ [DVD]
繁多寺の概要
東山 瑠璃光院 繁多寺(はんたじ)
現名称:東山 瑠璃光院 繁多寺
御本尊:薬師如来
創建年代:天平勝宝年間(749~57)
開山:行基菩薩
所在地:伊豫国温泉郡畑寺村(愛媛県松山市畑寺町)
宗派等:真言宗豊山派(江戸時代は泉涌寺の末寺で中本寺格だった)
コメント