四国17番 妙照寺〈文政8年〉

文政8年『神社仏閣順拝帳』
四国17番 瑠璃山 真福院 妙照寺
阿波国名東郡井戸村(徳島県徳島市国府町井戸)

四国17番妙照寺の納経

四国17番はもともと正式名称を妙照寺といいますが、井戸寺(井土寺)の通称で知られていたようです。井戸寺を正式名称とするのは大正5年(1916)で、それ以前の納経帳には妙照寺の名が使われています。

寺伝によれば創建は白鳳2年(643)、天武天皇の勅願とされます。本尊の七佛薬師如来は聖徳太子、脇侍の日光・月光菩薩は行基菩薩の作、八町四方の寺域に七堂伽藍と末寺12坊を擁する壮大な寺院であったといいます。

一般に七佛薬師如来というのは薬師如来の光背に6体または7体の仏像を配することが多いのですが、井戸寺の場合は同じ大きさの仏像を7体安置する珍しい形式です。

弘仁6年(815)弘法大師が留錫した際、一刀三礼して十一面観世音菩薩の像を刻みました。国の重要文化財に指定されている像がそれであると伝えられています。

また、この土地の人々が水不足で難儀しているのを憐れみ、錫杖で井戸を掘ったところ一夜にして清水が湧き出しました。そこで土地の名を井戸村、寺の名を井戸寺と称するようになったといいます。

貞治元年(1362)細川頼之の兵火で焼失。その後再興されますが、天正10年(1582)三好存保と長曽我部元親の戦いで再び炎上しました。承応2年(1652)四国を巡拝した澄禅の『四国辺路日記』には荒廃した寺の様子が記されています。万治4年(1661)徳島藩主・蜂須賀光隆により三間四面の本堂が再建されました。

現在は真言宗善通寺派ですが、江戸時代は大覚寺の末寺だったようです。

妙照寺の納経

四国17番妙照寺の納経

『巡拝帳』を見ると、墨書部分は版木押しで、右から順に

「奉納大乗妙典」
「本尊七佛薬師如来」
「阿波瑠璃山」「妙照寺」
「酉三月十六日」「行者丈」

前述のように、古くから「井戸寺(井土寺)」の名で知られており、『四国辺路道指南』や『四国徧礼霊場記』にも「井土寺」の名で項目が立てられていますが、納経帳には正式名称の妙照寺の名が使われています。

井戸寺を正式名称とする大正5年(1916)まで妙照寺の名が使われているため、その前後の納経帳の年代を推定する際の指標となります。

中央に朱印はありません。右上の印は「四国第十七番」、左下は「真福院」です。

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妙照寺の概要

瑠璃山 真福院 妙照寺(みょうしょうじ)
現名称:瑠璃山 真福院 井戸寺
御本尊:七佛薬師如来
創建年代:白鳳2年(673)
開基:天武天皇
所在地:阿波国名東郡井戸村(徳島県徳島市国府町井戸)
宗派等:真言宗善通寺派(当時は大覚寺末)

文政8年『神社仏閣順拝帳』
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