西国11番 上醍醐寺〈文政8年〉

文政8年『神社仏閣順拝帳』
西国11番 深雪山 上醍醐寺
山城国宇治郡醍醐村(京都府伏見区醍醐醍醐山)

上醍醐寺の納経

三室戸寺・萬福寺を参拝した太郎助は、同じ宇治郡内にある西国11番・上醍醐寺に登拝しています。ただし、納経は書き置きで日付がないため、同日か翌日かはわかりません。

醍醐寺は理源大師聖宝によって開かれた真言宗醍醐派の総本山です。

理源大師聖宝は真雅僧正(空海の弟で十大弟子の一人)を師として出家し、東大寺や元興寺で三論宗や法相宗、華厳宗を学びました。その後、貞観13年(871)真雅僧正から無量寿法を受け、密教の修行に入り、金剛山や葛城山、大峰山など諸国を巡って山林修行に励んだといいます。

貞観16年(874)笠取山(現在の上醍醐)で地主神・横尾明神の神託により霊泉・醍醐水を得、山上に草庵を結んで准胝観音・如意輪観音を奉安しました。これが醍醐寺の開創とされています。

延喜7年(907)醍醐天皇の御願寺とされ、薬師堂や五大堂が建立されました。同9年(909)に理源大師が遷化した後も、観賢僧正によって伽藍の整備が進められ、同13年(913)には定額寺とされました。同19年(919)には山麓の宿院造営が始まり、下醍醐の壮麗な伽藍が建立されます。

その後も朱雀・村上の両天皇をはじめ、歴代天皇や皇族、公家による諸堂の建立や荘園の施入が続き、寺運は隆盛します。また、真言宗の事相の二大流派である小野流の中心としても繁栄しました。

室町時代の後半になると、応仁・文明の乱で伽藍の大半を焼失し、また寺領荘園の多くも失ってしまいますが、天正4年(1576)80代座主となった義演僧正により、豊臣秀吉の援助を得て復興されます。秀吉が醍醐で盛大な花見や茶会を開いたことはよく知られています。

また、江戸時代になると真言宗系の修験道の中心となり、聖護院を中心とする天台系の修験道を本山派と称したのに対し、当山派と呼ばれました。

西国11番札所は醍醐寺開創の上醍醐の准胝堂ですが、江戸時代までは女人禁制で、女性は下醍醐の女人堂か、南の登り口である炭山村の女人堂で納経したようです。もちろん、太郎助の順拝帳は上醍醐のものとなっています。

とはいえ、准胝堂は創建以来たびたび火災で焼失しており、安永9年(1780)の『都名所図会』には観音堂の火災の後、准胝観音は薬師堂に祀られていると記されています。太郎助の参拝はその45年後ですが、その時点で准胝堂が再建されていたかどうかは確認できませんでした。

現在も昭和43年(1968)に再建された准胝堂が平成20年(2008)の落雷による火事で焼失したため、下醍醐の旧・大講堂に准胝観音を安置し、観音堂と改称して参拝・納経を行っています。

上醍醐寺の納経

上醍醐寺の納経

順拝帳を見ると、書き置きのものを貼ってあり、揮毫は右から順に

「奉納経」
「根本准胝堂」
「上醍醐寺」

日付はなく、「酉年」とあるだけです。

中央の宝印は蓮華座上の円に准胝観音の種字「ボ」。右上の印は「西国第十一番」。左下の黒印は「観■当番」のようですが、よくわかりません。

新版 古寺巡礼京都〈6〉醍醐寺新版 古寺巡礼京都〈6〉醍醐寺

上醍醐寺の概要

深雪山 上醍醐寺(かみだいごじ)
現名称:深雪山 醍醐寺
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:准胝観世音菩薩
創建年代:貞観16年(874)
開基:理源大師聖宝
山城国宇治郡醍醐村(京都市伏見区醍醐醍醐山/醍醐東大路町)
宗派等:真言宗醍醐派総本山
http://www.daigoji.or.jp/

文政8年『神社仏閣順拝帳』
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