文政8年『神社仏閣順拝帳』
田村神社(たむらじんじゃ)
四国83番一宮寺はもともと田村神社の宮寺であったため、境内は隣接しています。
本来は讃岐国一宮である田村神社が札所でしたが、延宝7年(1679)高松藩主・松平頼重の命により田村神社が唯一神道となり、分離された一宮寺が札所を継承しました。
田村神社の御神体は、奥殿床下にある「定水井」と呼ばれる深淵で、古くはそこに筏を浮かべて供物を供え、祭祀を執り行ったと伝えられます。和銅2年(709)に社殿を建立、大同年間(806~10)弘法大師が留錫して四国霊場に定めたと伝えられます。
嘉祥2年(850)従五位下を奉授され、貞観3年(861)には官社に列しています。同7年(865)正五位下、同17年(875)従四位上、元慶元年(877)正四位上に進み、延喜の制では名神大社に列しました。建久元年(1190)には正一位に極位しています。中世には讃岐国の一宮として崇敬されました。古くは「定水大明神」「一宮大明神」「田村大社」などと呼ばれていたそうです。なお、現在は四国曼荼羅霊場の11番札所でもあります。
田村神社の納経
『順拝帳』を見ると、文字の部分は版木押しで、右から順に
「讃州」
「一宮正一位田村大社」
「酉三月十一日」
「大宮司」
朱印は左下の「田村社」のみ。
「田村大社」の「大社」号は、延喜式の名神大社であることによると思われます。因みに、明治~昭和20年に大社と称したのは出雲大社のみ、現在「大社」を称している神社は、一部の例外を除いて戦前に官幣大社・国幣大社であったことによるものでしょう。
「奉納経」「大乗妙典」などの文字がないのは唯一神道で納経を受け付けないという建前によるものでしょう。
江戸時代、納経をしない建前の唯一神道の神社や浄土真宗の寺院などの「納経印(?)」には、「奉納経」等は入らず、それに代わる文言もありません。それを考えると、神社や浄土真宗を含めた江戸時代の納経帳の御判について、便宜的ではあっても「納経印」と総称するのが適切なのか、悩ましいところです。
さて、『新四国曼荼羅霊場を歩く』(富永航平・朱鷺書房)によれば、田村神社と一宮寺は神仏分離後も両方に参拝するのが通例であったそうです。あえて両参りと言わなくても、境内が隣り合わせで、しかも田村神社は讃岐一宮であるわけですから、よほどでなければ参拝しないはずがありません。
しかし、江戸時代の納経帳を見ると、両方の納経印があるのは少数で、大半は一宮寺の納経印のみです。太郎助の『神社仏閣順拝帳』は珍しい例になるわけです。いったいどういうことでしょうか。
思うに、当時の一般の遍路は、一宮寺と田村神社が分離しているということをあまり認識していなかったのではないでしょうか。つまり、他の神社が札所で別当寺が納経所となっている札所と同じく、田村神社が札所で一宮寺が納経所だと認識していたのではないかということです。
現代のように書籍やインターネットで情報が簡単に手に入るわけではありませんし、参拝するにしても特に不都合があるわけではありません。とすれば、敢えて田村神社でも納経印(?)をいただく人が少なくても不思議はないのかもしれません。
田村神社の概要
現名称:田村神社
御祭神:倭迹迹日百襲姫命、五十狭芹彦命(吉備津彦命)/猿田彦大神、天隠山命、天五田根命、以上五柱を総称して田村大神と称する
創建年代:和銅2年(709)社殿建立
鎮座地:讃岐国香川郡一宮村(香川県高松市一宮町)
社格等:式内社(名神大)、讃岐国一宮、旧国幣中社、別表神社
http://tamurajinja.com/
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