文政8年『神社仏閣順拝帳』
西国8番 豊山 長谷寺
大和国式上郡初瀬村(奈良県桜井市初瀬)
真言宗豊山派総本山・長谷寺は、西国三十三所を開いた徳道上人ゆかりの寺であることから三十三所の根本霊場とされます。牡丹の名所としても名高く、古くから花の御寺とも呼ばれています。
長谷寺の壮大な伽藍は初瀬山の山腹に広がっています。明治の火災以後に再建された建物も多いのですが、国宝の本堂をはじめ重要文化財の仁王門・登廊など江戸時代の建築も多く残っています。太郎助も現在と同じような景観を眺めたのでしょうか。
寺伝によれば、朱鳥元年(686)道明上人が天武天皇のために「銅板法華説相図」を造立して初瀬山の西の丘に安置したのが長谷寺の淵源とされます。この一角は現在の本堂(今長谷寺)に対して本長谷寺と呼ばれています。
神亀4年(727)聖武天皇の勅により、徳道上人が近江国高島郡から運び出された霊木で2丈6尺(約8.6m)の十一面観音像を造立し、天平5年(733)行基菩薩を導師として開眼供養が行われたと伝えられます。
この観音像は盤石座に立ち、左手に宝瓶、右手に数珠をかけて錫杖を持つ姿をしています。古くから霊験あらたかなことで知られ、鎌倉の長谷寺など同木分身とされる十一面観音像を本尊とする寺が各地にあります。
現在の本尊は天文7年(1538)の再興で、高さは10mを超え、国宝・重要文化財に指定された木造彫刻としては最大のものです。
平安時代から観音霊場として信仰を集め、今昔物語の「わらしべ長者」をはじめとする霊験譚も数々伝わっています。寛治4年(1090)に三十三所を巡拝した行尊(記録に残る三十三所巡拝の最古の例とされる)は、長谷寺から巡拝を始めています。
特に女性の信仰が盛んで、東三条院(藤原詮子)や北条政子をはじめ、「蜻蛉日記」を著した藤原道綱母や「更級日記」の菅原孝標女も参詣しています。室町時代に伊勢参宮が盛んになると、その道筋にある長谷寺にも参拝する人が多かったといいます。
初め、長谷寺は東大寺末でしたが、正暦の頃(990~95)、興福寺の末寺となりました。天正15年(1587)豊臣秀長が荒廃していた長谷寺を再興するため、根来寺焼き討ちの後、高野山に逃れていた専誉僧正を招聘。以来、京都の智積院とともに新義真言の学山として繁栄し、真言宗豊山派の総本山となりました。
長谷寺の納経
順拝帳を見ると、揮毫は右から順に
「奉納経」
「勅願所」
「本尊十一面観世音」
「長谷寺」
日付を書き直していますが、月初めなので、つい五月廿何日かと書いてしまったのでしょう。
中央の宝印は蓮華座上の火炎宝珠に十一面観音の種字「キャ」。右上の印は「西国第八番」、左下は判読しづらいのですが「豊山□学」と思われます。
長谷寺の概要
豊山 神楽院 長谷寺(はせでら)
現名称:豊山 神楽院 長谷寺
異称:初瀬寺、泊瀬寺、豊山寺
御本尊:十一面観世音菩薩
創建年代:朱鳥元年(686)/神亀4年(727)
開基:道明上人/徳道上人
大和国式上郡初瀬村(奈良県桜井市初瀬)
宗派等:真言宗豊山派総本山
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