文政8年『神社仏閣順拝帳』
波宇志別神社(はうしわけ じんじゃ)
由利郡漆畑村の住人・太郎助の『神社仏閣参拝帳』は秋田県横手市の保呂羽山(ほろわさん/標高438m)に鎮座する式内社・波宇志別神社から始まっています。現在は保呂羽山波宇志別神社と称するようです。
秋田県神社庁のサイトその他を参考に、波宇志別神社の由緒を簡単にまとめてみます。
保呂羽山波宇志別神社(秋田県神社庁)
波宇志別神社(玄松子の記憶)
社伝によれば、創建は天平宝字元年(757)8月15日で、神主・大友家の先祖・大友右衛門太郎吉親が大和国金峯山より安閑天皇(蔵王権現)を勧請したことによるといいます。
江戸時代、久保田(秋田)藩主となった佐竹氏は深く波宇志別神社を崇敬し、社領110石を寄進、藩内神社の第一位としました。また、式内社・塩湯彦神社と副川神社を再興、波宇志別神社と合わせて三国社と称し、特別の保護を加えたといいます。
明治5年(1872)県社に列格しています。昭和40年代まで女人禁制を守っていたとのことです。
因みに、安閑天皇は蔵王権現と同一視されていましたので、かつて蔵王権現を祀っていた神社の多くは、神仏分離後に安閑天皇を御祭神とするようになりました。
ネット上で見る限り、ほぼ久保田藩との関係の情報ばかりなのですが、平凡社の『日本歴史地名大系』によれば、保呂羽山は久保田領・亀田領・矢島領の接する位置にあり、それぞれから登り口がありました。久保田領は平鹿郡八沢木村(横手市大森町八沢木)の表口(横手口・秋田口)、亀田領は由利郡羽広村(由利本荘市羽広)の裏口、矢島領は由利郡法内村(由利本荘市東由利法内)の脇口で、それぞれに別当がいました。久保田領八沢木村の大友氏は横手口、守屋氏は秋田口で、亀田領の羽広村の別当は遠藤氏・佐々木主税、矢島領の法内村の別当は極楽寺だったそうです(羽広村の別当は一人のはずなのですが、この遠藤氏と佐々木主税の関係がよくわかりません)。
つまり、保呂羽山の波宇志別神社は、亀田藩や矢島藩にとっても重要な霊場であり、それぞれで祭祀も執り行っていたのでしょう。亀田藩主の岩城氏は社領として30石を寄進していたそうです。
波宇志別神社の納経
参拝帳を見ると、墨書は右から順に
「羽州由利郡羽廣邑」(邑=村)
「保呂羽山鎮座 波宇志別神社 廣前」
「神主 藤原■安」
「太郎助丈」。
朱印は二つで、中央のものは宝珠の中に文字があるが、判読できません。蔵王権現の種字であれば「ウーン」ですが、どうも違うようです。漢字のようにも見えます。右下、署名のところの印は文字が不鮮明で、やはり判読できません。
太郎助は亀田領の人ですから、当然ながら羽広村側から参拝したようです。署名している神主も羽広村の別当のことだと思われます(苗字ではなく本姓で署名している)。遠方への巡拝に先立ち、まず地元を代表する霊場に参拝したのでしょう。前回も書いたように、巡拝前の1~2月(新暦の2~3月)ごろは積雪で参拝が難しいため、前年のうちにすませたのではないでしょうか。
納経帳の宛名は「行者丈」とすることが多いのですが、ここでは「太郎助丈」となっています。これも、単なる一巡礼者への対応ではなく、地元の人間に対する身内意識があるように思います。
波宇志別神社の概要
現名称:保呂羽山波宇志別神社
御祭神:安閑天皇(他合祀11柱)
所在地:出羽国平鹿郡八沢木村(横手市大森町八沢木)
社格等:式内社、旧県社
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