西国9番 興福寺南円堂〈文政8年〉

南円堂の納経

文政8年『神社仏閣順拝帳』
西国9番 興福寺 南円堂
大和国添上郡奈良町(奈良県奈良市登大路町)

南円堂の納経

長谷寺を参拝した太郎助は、その日のうちに奈良に到着し、西国9番・興福寺南円堂を参拝しています。

興福寺は藤原氏の氏寺で南都七大寺の一つ、法相宗の大本山です。比叡山とともに「南都北嶺」と称され、中世における権勢は大変なものでした。

興福寺の衆徒(僧兵)がしばしば春日大社の神木を奉じて京に乗り込み、朝廷に強訴したこと(神木動座)は有名です。神木動座が行われると藤原氏の公卿は謹慎・蟄居しなければならず、朝廷が麻痺してしまうため、興福寺の要求はたいてい通ったといわれます。

また、平安時代には大和国の荘園のほとんどを領し、事実上の国主となりました。鎌倉・室町時代にも大和国には守護職は置かれず、興福寺が検断(警察・治安維持・刑事裁判など)を行いました。

興福寺は天智天皇8年(669)藤原鎌足が重病を患った際、夫人の鏡女王がその回復を祈願し、鎌足の念持仏の釈迦三尊像などを祀る伽藍を建立したことに始まるとされます。この寺は山階寺と呼ばれ、後世でも興福寺の別称として使われています。壬申の乱の後に藤原京に移され、地名を取って厩坂寺と称されました。

和銅3年(710)の平城遷都に際し、藤原不比等によって現在地に移され、興福寺と名付けられたと伝えられます。しかし、実際に移転したのは和銅末から霊亀・養老の頃(715~24)であろうといいます。藤原氏の氏寺ですが、養老4年(720)官寺に列せられました。

平安遷都後も平城京に残されましたが、春日社の祭祀の実権を握り、摂関家との関わりを背景として大きな力を持つようになります。江戸時代も春日社領と合わせて2万1千石の朱印地を寄せられました。

しかし、享保2年(1717)講堂から出火した火災により、中金堂・西金堂・鐘楼・三面僧坊・南大門・中門・南円堂などが焼失。復興はなかなか進まず、ようやく寛政元年(1789)に南円堂が再建、一山の中心である中金堂でさえ焼失から100年あまり経った文政2年(1819)旧堂の半分程度の仮堂のようなものとして再興されたほどでした。

太郎助の参拝はこの頃のことになります。

こうして弱体化した興福寺は、さらに明治の神仏分離・廃仏毀釈によって甚大なダメージを受け、廃寺同然の状況となりました。境内の塀は取り払われ、樹木が植えられて奈良公園の一部となりました。公園の中に堂宇が点在する現在の光景は、明治14年(1881)興福寺の再興が認められ、同30年(1897)古社寺保存法が施行されてからのものです。江戸時代の興福寺の姿は、現在とはまったく違ったものでした。

南円堂は弘仁4年(813)藤原北家の藤原冬嗣が父・内麻呂の追善供養のために建立した八角円堂で、本尊は不空羂索観音です。

西国9番札所として広く信仰を集めたのみならず、藤原一門でもっとも権勢を誇った北家の祖である内麻呂・冬嗣父子との縁を持つこと、本尊の不空羂索観音が鹿皮を身にまとうことから鹿を神使とする春日社一宮の祭神・武甕槌命の本地と考えられるようになったことなどから、興福寺の中でも得意な位置を占めています。

治承4年(1180)の兵火で焼失した最初の本尊は、天平18年(746)藤原房前の追善のために造立されたもので、元は興福寺講堂に祀られていました。現在の本尊は運慶の父・康慶一門の作で、国宝に指定されています。同じく堂内に祀られる四天王像も国宝、南円堂そのものは国の重要文化財です。

目次

興福寺南円堂の納経

南円堂の納経

順拝帳を見ると、揮毫は右から順に
「奉納経」
「和州奈良」
「南円堂大悲殿」
「当番」

中央の宝印は上り藤に不空羂索観音の種字「モウ」。右上の黒印は「西国九番」、左下は「当番」と思われます。

古寺巡礼奈良5 興福寺古寺巡礼奈良5 興福寺

興福寺南円堂の概要

興福寺 南円堂(なんえんどう)
現名称:興福寺 南円堂
御本尊:不空羂索観音
創建年代:天智天皇8年(669)/弘仁4年(813)
開基:藤原不比等/藤原冬嗣
大和国添上郡奈良町(奈良県奈良市登大路町)
宗派等:法相宗大本山
http://www.kohfukuji.com/

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