慈尊院〈文政8年〉

慈尊院の納経

文政8年『神社仏閣順拝帳』
万年山 慈氏寺 慈尊院
紀伊国伊都郡慈尊院村(和歌山県伊都郡九度山町慈尊院)

慈尊院の納経

太郎助は高野山奥の院参拝の翌日、高野山の登り口にある慈尊院で納経しています。慈尊院の御本尊の弥勒仏は弘法大師の御母公・玉依御前の化身と信じられ、古くから女人結縁の寺として信仰を集めています。

弘仁7年(816)高野山を開いた弘法大師は、その麓に一山の庶務を司る政所を設けました。慈尊院もその中にあったのですが、後には政所全体を慈尊院と総称するようになりました。藤原道長や白河上皇、鳥羽上皇はここから高野山に登っており、高野山の表玄関のような役割もしていたようです。

伝えられるところでは、承和元年(834)弘法大師の御母公・玉依御前が讃岐から高野山へ大師を訪ねてこられました。しかし大師は自ら高野山の七里四方を女人禁制としていたため、山麓の政所へ迎えられました。そして、月に必ず9度は山を下り、母公に孝養を尽くしたことから、当地を九度山と呼ぶようになったといわれます。

翌承和2年(835)2月5日に入寂された玉依御前は弥勒仏に化身されました。そこで大師は廟堂(弥勒堂)を建立して弥勒仏の像を安置し、慈氏寺・慈尊院と称しました(慈氏・慈尊は弥勒仏の別名)。この縁起から女人高野、女人結縁の寺とされ、子宝・安産・育児・授乳・病気平癒などの霊験で信仰を集めてきました。

因みに慈尊院から高野山の大門、さらに根本大塔を経て奥の院に至る道は「高野山町石道」と呼ばれます。弘法大師が高野山を開創したときに開かれた道で、道しるべとして1町(約109m)ごとに町石(石造の卒塔婆)があります。当初は木の卒塔婆が建てられていたようですが、鎌倉時代の文永2年(1265)から20年の歳月をかけて石の卒塔婆が建てられ、今もほぼ当時のままで残っています。190年前に太郎助も歩いた道です。

目次

慈尊院の納経

慈尊院の納経

順拝帳を見ると、墨書部分は右から順に

「奉納経」
「弘法大師御母公」
「慈尊院 政所」
「酉五月廿五日」

縁起の通りで、特に説明の必要がない内容です。

中央の朱印は火炎宝珠に弥勒仏の種字「ユ」、右上は「萬年山」、左下の印は印影が薄いため判読できません。

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慈尊院の概要

万年山 慈氏寺 慈尊院(じそんいん)
現名称:万年山 慈氏寺 慈尊院
御本尊:弥勒仏
創建年代:弘仁7年(816)
開基:弘法大師
所在地:紀伊国名伊都郡慈尊院村(和歌山県伊都郡九度山町慈尊院)
宗派等:高野山真言宗別格本山
http://jison-in.org/

文政8年『神社仏閣順拝帳』
高野山 → 慈尊院 → 施福寺
※参拝寺社一覧

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