八幡神社(敦賀)

福井県敦賀市三島町一丁目3-2 [Mapion|googlemap]

八幡神社(敦賀)

八幡神社(はちまんじんじゃ)
正式名称:八幡神社
旧称:正八幡宮、築地八幡宮
御祭神:誉田別命 /配祀:五十日足彦命
創建年代:宝亀11年(780)
例祭:5月14日
社格等:旧県社 (式内論社)

【御由緒】
神功皇后摂政13年(213)皇太子であった応神天皇(誉田別尊)は武内宿禰に伴われ、敦賀に行啓して氣比大神を拝しました。当社はこの時の行宮の跡とされ、土地の人々が砂で岡を作って行宮を建てたことから「築地八幡宮」の名があるといいます。

配祀の五十日足彦命(石田大神)は延喜式神名帳に見える敦賀郡石田神社の論社で、大宝4年(704)勅によって勧請されたと伝えられます。

宝亀11年(780)に神託があり、光仁天皇の勅命によって藤原永手が社殿を造営、八幡大神を奉斎、石田大神を相殿に祀りました。

皇室や武門の崇敬篤く、元寇に際しては勅宣により戦勝を祈願しました。弘治2年(1556)朝倉義景が社殿を造営。また疋田景継は御供料として毎年米120石を寄進しました。元亀元年(1570)織田信長の手筒山・金ケ崎城攻めの兵火にかかりました。

なお、県指定文化財の日本刀外装は天正元年(1573)織田信長が朝倉攻めの際に寄進したと伝えられます。

その後、敦賀城主となった大谷吉継は当社を城内の鎮守としたと伝えられ、吉継が奉納したとされる石灯籠や鳥居、欄間飾りが残っています。江戸時代は小浜藩の歴代藩主の崇敬を受け、社殿の造営や社領などの寄進がありました。

明治8年(1875)郷社に列格。同43年(1910)旧田島村の村社・日吉神社、旧徳市村の村社・八幡神社を合祀。昭和12年(1937)県社に昇格しました。

八幡神社の御朱印

八幡神社(敦賀)の御朱印

中央の朱印は額に「正八幡神社」。

炎の仁将 大谷吉継のすべて (新人物往来社文庫)炎の仁将 大谷吉継のすべて (新人物往来社文庫)

八幡神社の参拝記

敦賀市三島町鎮座の八幡神社。なかなか情報がないのですが、大谷吉継ゆかりの神社として知られているようです。

気比神宮金崎宮の参拝を終え、小浜市の若狭彦神社へ向かう電車までに時間があったので参拝することに。この神社については伊達青衝さんの『神のやしろを想う』で知り、余裕があれば参拝しようと思っていたのです。

八幡神社(敦賀)鳥居

八幡神社の鳥居。ここから200m余り北にある敦賀西小学校の辺りが敦賀城の跡になるそうです。敦賀城主であった大谷吉継は、当社を城内の鎮守として崇敬したと伝えられます。

八幡神社(敦賀)撫で牛

撫で牛。

八幡神社(敦賀)境内社

境内社。画面のほぼ中央にある石灯籠が大谷吉継寄進のものと伝えられます。とはいえ、老朽化のためか、火袋と竿は新しくなっているようです。

八幡神社(敦賀)境内社

同じく境内社。『平成「祭」データ』には境内社の記載はありませんが、『敦賀郡誌』(大正4年)には氣比宮・常宮社・高津宮・住吉社・稲荷社・粟島社・金幣社が挙げられています。

八幡神社(敦賀)幣殿

幣殿だと思います。社殿の配置が滋賀県の神社に似ていますので、一番上の写真が拝殿、こちらが幣殿と判断しました。

八幡神社(敦賀)幣殿内部

幣殿内部。

八幡神社(敦賀)欄間飾りの龍

欄間飾りの龍は、敦賀城内にあったものと伝えられます。

限られた時間で慌ただしい参拝になった上、ほとんど下調べもしなかったため、いろいろ見落としがありました。敦賀城の礎石や鬼瓦、大谷吉継奉納の石鳥居などもあるようです。

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