文政8年『神社仏閣順拝帳』
高野山 奥の院
紀伊国伊都郡高野山(和歌山県伊都郡高野町)
太郎助は粉河寺に参拝した後、高野山に向かい、奥の院で納経をしています。弘法大師は奥之院の御廟に入定し、弥勒下生の時まで衆生を救済していると信じられています。
弘仁7年(816)弘法大師は嵯峨天皇より高野山を賜り、真言密教の根本道場として金剛峯寺を創建されました。高野山は標高約800mにある平坦地で、摩尼・楊柳・転軸の高野三山など8つの山々に囲まれた姿は八葉蓮華に喩えられます。
弘法大師は京都と高野山を往復しながら真言密教の弘通と衆生済度に尽力し、承和2年(835)奥の院で入定されました。入定とは「禅定に入る」という意味で、弘法大師は亡くなったわけではなく、永遠の禅定に入って今も衆生済度を続けているということから「入定」の語を用います。
以来、高野山は弘法大師信仰の中心として、白河上皇や鳥羽上皇、藤原道長をはじめ、皇族・貴族や武将から庶民に至るまで、多くの人々が登山参詣するようになりました。
現在では、高野山金剛峯寺というと旧青巌寺と旧興山寺を合併した本坊・総本山金剛峯寺を指すことが多いのですが、本来は高野山全体の総称でした。金堂・根本大塔・御影堂などを中心とする東の壇上伽藍と、弘法大師の御廟を中心とする西の奥の院が中心となります。さらに、山内には多数の子院(塔頭寺院)があり、現在でも117ヶ寺を数えますが(うち52ヶ寺が宿坊)、江戸時代には1,800ヶ寺余りの子院があったそうです。
壇上伽藍は真言密教の根本道場、奥の院は大師信仰の中心としての性格を持ちます。江戸時代、高野山での納経はもっぱら奥の院において行われたようです。高野山に参詣する人々の多くが宗派を越えた大師信仰によることを表しているようで、これは現代に通じることかも知れません。
奥の院に至る参道の両側には大名墓をはじめ、20万基を越えるという多くの墓が並んでいます。高野山に納骨・納髪する習慣は非常に古く、万寿3年(1026)藤原道長の娘・上東門院彰子が出家剃髪の後、大師の廟前に納髪したのが最古の例とされています。
蛇柳や姿見の井戸、高麗戦陣敵味方戦死者供養碑、江戸焼死者追悼碑など数々の見所を過ぎると御廟橋(無明橋)があります。御廟橋を渡ると正面に燈籠堂、その奥に弘法大師の御廟があります。
燈籠堂には多くの人々が願いを込めて燈籠を奉納していますが、中でも高野山の再建に尽力した祈親上人が献じた祈親燈、白河上皇が献じた白河燈、貧しいお照という女性が祈親上人の勧めにより大事な黒髪を切って献じた貧女の一燈、そして昭和燈が消えずの火として灯し続けられています。
上の絵は『紀伊国名所図会』にある燈籠堂の様子ですが、御宝前に白河燈と貧女の一燈が描かれています。数多くの燈籠や手前の柵など、現在と変わらない様子です。太郎助もここで手を合わせたことでしょう。
奥の院参拝の翌日、高野山の登り口にある慈尊院で納経していますので、この日の夜は高野山内の宿坊に泊まったものと思われます。
高野山奥之院の納経
順拝帳を見ると、墨書部分は右から順に
「奉納経」
「高野山 奥院」
「弘法大師 御宝前」
「御供所 知事」
「文政八酉年五月廿四日」
中央の宝印は九畳篆で判読できません。右上は「金剛峯寺」、左下は「知事」。
これを見ると、納経を受けたのは御供所になっています。御供所は御廟の弘法大師に御供えする食事を支度するお堂です。現在でも奥の院の納経は御供所で行っていますが、江戸時代からの伝統のようです。
高野山奥之院の概要
高野山 奥之院(こうやさん おくのいん)
現名称:高野山金剛峯寺 奥之院
御本尊:弘法大師
創建年代:弘仁7年(816)/承和2年(835)
開基:弘法大師
所在地:紀伊国名伊都郡高野山(和歌山県伊都郡高野町)
宗派等:高野山真言宗総本山
文政8年『神社仏閣順拝帳』
粉河寺 → 高野山 → 慈尊院
※参拝寺社一覧
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